03 キミコさん

 拙著『ダブル・ファンタジー』に登場する主人公の母親は〈紀代子(きよこ)〉、自伝的小説『放蕩記(ほうとうき)』での母親は〈美紀子(みきこ)〉だが、実際の私の母は、〈公子(きみこ)〉という。安易な置き換えですみません。
 そのキミコさん、若いころ手相占いのおじさんから「あんたは長生きするよ!」と感心された、というのを一つ話のように自慢していただけあって、認知症を患って施設に入り、現実の世界ではもう誰のこともわからなくなっていても、いくらか機嫌のいい日はオルガンを弾き、好き嫌いは激しくとも自分の口から食べている。
 私たち家族は皆で、もしかしてあのひとは死ぬことまで忘れてるんじゃないか、と陰口をたたきながら安心していた。
 駆けつけた時、母は車椅子に座らせてもらって、いつもと同じように食堂にいた。寝たきりでいるとかえって血管が詰まりやすく、むしろ起きていたほうがいいらしい。
 ちょうど風邪をひいていた私は、誰にもうつしてはならじとマスクをかけたまま、母の隣に寄り添い、ムース状の煮物とかお(かゆ)などを少しずつ食べさせた。口に入れることに成功したとしてもなかなか飲み下すまでいかないのだが、大好物のカルピスだけはわずかに飲む。前回来た時には「おいしいワ」と繰り返していたけれど、もうまったく言葉は出てこないようで、それでも目もとと口もとがほんの一度か二度、このひと一流の憎たらしさで、ニタリと笑むのがわかった。
 発作の時に血流が滞ってしまったために、指の先や鼻のあたまは赤黒い(あざ)みたいになっていたけれど、いつものとおり、身体(からだ)からは何の嫌なにおいもしない。顔もうなじも耳の穴までも清潔で、つるつるのすべすべだ。
 色々なことがわからなくなってしまってからは心底お風呂を嫌うようになった母を、こんなにも清潔にして下さるのに、スタッフの人たちはどれだけ苦労していることだろう。
 そのさっぱりと白い耳もとに口を寄せた背の君が、
「ええか、キミコおばちゃん」
 大きな声で言った。
「明日もあさっても、毎日会いに来るからな。しっかり元気でおるんやで。ええな」
 私にとっては従弟(いとこ)、母にとっては(おい)でもある彼の声に、〈キミコおばちゃん〉はかすかに(うなず)いたようにも見えた。

 三月三十一日から一週間ほど実家に滞在する間、私は、長引く風邪のだるさをもてあましながら、持ち込んだノートパソコンでだらだらと仕事をしていた。南房総(みなみぼうそう)の春はうららかで、花の終わった梅のかわりに桜のつぼみがほころびかけていた。
 父の二度目の命日である四月三日をせつない気持ちでやり過ごした、その翌日。私なんかの百倍はマメな背の君が、二人分の寝具一式を寝室のベランダにひろげてお天道さまに干していた間のことだ。
「由佳、来てみ」
 寝室の入口から、彼が小声で私を手招きした。
「そーっとやで、そーっと」
 どうやらベランダに何かいるらしい。垂れてくる鼻水を(すす)り、スリッパを脱ぎ、素足でそろりそろりと近づいていった私は、ドアの陰から(のぞ)くなり思わず、あん、とヘンな声を漏らしてしまった。
 猫だ、猫がいる。子猫ではないけれどかなり小柄で、どうやらシャム系の雑種らしい。胴体は優しいクリーム色、顔の真ん中や各パーツの先っぽは焦げ茶色だった。
 立てかけてある三つ折りマットレスや、まだ湿っているシーツの匂いを嗅ぎ、網戸越しにこちらの様子をうかがっている。レースのカーテンが風に揺れても、動じる様子はない。
「にゃぁお」
 呼びかけてみると、ぴくっと耳が動いた。怖がらせないよう、私は床にしゃがみこんだ。
「どっから来たん?」
 と()けば、細く澄んだ声で答えてよこすのだが、いかんせん何を言っているのかわからない。まあ、訊いたこっちが悪い。

 滞在はものの一分ほどだったろうか。半端な長さの尻尾をぴっ、と機嫌良く振りたてると、猫は足音もたてずにベランダを横切り、庭の植え込みの向こうへ見えなくなった。
「いやー、可愛(かい)らしい猫やったのう!」
 と、明らかに感嘆符付きで背の君が言う。
「ほんまや、また遊びに来てくれへんかなあ!」
 と、私。
 でもそれっきり、母の容態が落ちつくのを見届けた私たちがいったん軽井沢(かるいざわ)へ帰ってしまうまでの間、猫は一度も会いに来てくれなかった。
 のちに〈絹糸(きぬいと)(お絹)〉と名付けられる彼女が、次に姿を見せるのは、この最初の邂逅(かいこう)からちょうど一週間後──母が亡くなった後のことになる。

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村山由佳(むらやま・ゆか)

 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。


本文写真 村山由佳
著者近影 山口真由子