06 静かな最期

 翌日、再び高速に乗り、軽井沢(かるいざわ)へ向けて走っている時だった。バッグの中で携帯が鳴り始めた。
 南房総(みなみぼうそう)の施設からだ。嫌な予感どころかほとんど覚悟を決めて耳にあてると、担当スタッフのOさんが、〈張りつめた〉と〈沈んだ〉の中間くらいの声で、母の容態がまた一段階進んだことを教えてくれた。
 今のところ苦しそうではない。ただ昏々(こんこん)と眠っている。診察もしてもらったが、おそらく時間の問題ではあると思う。要約すればそういった内容のことを可能な限り言葉を選んで伝えてくれたうえで、Oさんは言った。
「今、どちらにいらっしゃいますか。これから戻ってみえることはできますか」
 とっさに頭をよぎったのは、原稿の〆切と、週半ばに控えたラジオのレギュラー番組のことだった。
 原稿は、これから帰って突貫工事で仕上げなければ明日いっぱいの〆切に間に合わない。翌日のラジオは上京しての収録で、さらにその晩、初対面の方たちとの重要な打ち合わせが控えている。
 だけど、母は今まさに死んでいこうとしているのだ。そんな時に私は……。
 思わず、ハンドルを握っている背の君のほうを見やる。と、やりとりを聞いていた彼は、まっすぐ前を向いたまま言った。
「とりあえず兄貴に連絡せえ」
 一旦切った電話で、すぐさま、今朝別れたばかりの兄に連絡を取る。母の状態と、私の置かれている状況の両方を話すと、
「わかった」
 兄はいつもよりひときわ低い声で言った。
「とりあえず俺のほうで調整してみるから、由佳は安心して仕事しなさい」
 しかし兄だって、簡単に休みの取れる仕事ではない。人工透析の患者さんの命を預かっているのだ。
 ああは言ってくれたけどシフトの調整は急には無理かもしれない、と気を()む私に、背の君が言った。
「心配すな。いざとなったら、お前を家に落っことして、俺だけ引き返すわい」
 手を伸ばし、ギアの上で彼の手を握りしめる。
「……うん。おおきに」
「息子・娘でのうて(おい)っ子が駆けつけるんでも、この際、キミコおばちゃんも文句言わへんやろう。……いや、言うか、あのひとやったら」
「まあ言うやろなあ。全員(そろ)わなんだら、きっとボロクソ」
 ふふ、ふふふ、と二人して笑って、それから、何とも言えない()め息がもれた。

 結局のところ、兄夫婦がその日のうちに千倉(ちくら)へと走ることになり、そこから後は義姉(あね)がLINEで状況を逐一書き送ってくれた。
 深夜まで原稿を書き、電池が切れて横になった朝方五時過ぎ。
 携帯が鳴った。呼び出し音一つでベッドに起き上がると、部屋の空気は夜明けの薄紫色で、足もと正面のキャビネットに飾ってある〈もみじ〉の写真とまっすぐに目が合った。いま逝った、という(しら)せだった。
「お義母(かあ)さん、ちっとも苦しまなくて、静かな最期だったそうよ……」
 昨夜は実家に泊まっていた兄夫婦が、施設からの報せですぐに駆けつけた時には、ひと足違いで息を引き取った後だったそうだ。
 そっか、うん、うん、と相槌(あいづち)を返しながらも、全然、まったく、実感が湧いてこない。なぜだか若い頃の母の姿が浮かぶばかりで、相変わらず感情はぴくりとも動かない。悲しくも何ともないのは、まだこの目で見ていないからだろうか。それより何より、息をしない母のすぐそばに付き添っている兄のほうが気がかりだ。
 もう二十年くらい前になるけれど、私が旦那さん一号と鴨川(かもがわ)のログハウスに暮らしていた頃、ふと兄に尋ねたことがあった。
〈兄貴はさ、お父ちゃんが死ぬのと、お母ちゃんが死ぬのとではどっちが(つら)い?〉
 そのとき兄は、お前、すごいことをあっさり()くね、と苦笑しながら、だいぶ長いこと考えた末に言った。
〈もちろんどっちも辛いけど、親父(おやじ)に関してはどこかであきらめがつく気がする。これはやっぱり、俺が男だからなのかな。どっちかって言えば、おふくろのほうがきついな〉
 今、その兄は、どんな気持ちで母の死顔を見ているんだろう。
「こっちのことは気にしなくて大丈夫だからね」
 と、義姉があえて明るく声を張って言ってくれる。
「由佳ちゃんは、明日の晩、東京での仕事が終わってから来てくれたらいいから。風邪(かぜ)だってまだ治りきってないんでしょ。いま無理しなくたって、ほら、もう急ぐ必要はないんだもの。こっちで必要なことはナオヤさんととりあえず進めておくし、何か迷ったら電話で相談するから」
 電話を切ると、隣で寝ていた背の君がしわがれ声でつぶやいた。
「アカンかったか」
「うん」
 しばらくの間、黙って何となく手を握り合っていた。
 それからベッドを出て、いつものとおり、まずはもみじに供える水を取り替える。正確には、お湯。いい湯加減、といった感じの熱さが彼女の好みだ。
「はい、もみちゃん、どうぞ」
 グラスを置くと、写真立ての中から、愛くるしい目をした三毛猫がこちらをしげしげ見上げてくる。
「なんでか、みぃんな春に逝きよんのう」
 そばに来た背の君が言った。

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村山由佳(むらやま・ゆか)

 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。


本文写真 村山由佳
著者近影 山口真由子