09 対面

「お疲れさん」
 助手席に乗り込んだ私に、背の君は言った。
 たしかに、長い一日だった。もう十一時近い。でも、彼のほうも軽井沢(かるいざわ)から四百キロ以上を運転してきたのだ。
「えらい雪やったわ。峠、越されへんか思た」
 言いながら車を出す。あちこちで満開の桜を眺めながら聞くと現実感がないが、そうだった、今朝家を出る時は雪が降り積もっていたのだった。
「メシはちゃんと食うたんか」
「うん。バスの中で、助六寿司」
「それだけかい。腹減っとるやろ」
 いつもならそのはずなのだが、あまり食欲がない。母のことがこたえているというよりは、数日前からばたばたと色々あって長距離移動が続き、〆切をクリアするのに徹夜などもして、その果てに高速バスに揺られたせいで今日のぶんの元気はちょっともう残っていないというだけだった。
 背の君は、ずっとこちらにいてくれた私の兄夫婦と三人で、義姉(あね)が作ってくれた夕食を食べたと言う。
「キミコおばちゃん、安らかやったで」
「今は?」
「うちに寝たはるわ」
「……そっか」
 海べりのまっすぐな道を走りながら、彼は私のほうをちらりと見た。
「コンビニ寄ってこか。明日の朝のぶん、好きなもん()うとき」
 私は、黙って頷いた。どうしたって対面しないわけにはいかないのだから、先延ばしにしていても仕方がないのだけれど、何となくぐずぐずしてしまう。そういう気分が、彼にはお見通しらしい。
 松林に面したコンビニに車を停め、買ったばかりのアイスを食べた。私はアーモンドクランチのチョコバーをかじり、彼はモナカを頬張る。俺は別に要らんし、と言うのに、いいから付き合えと強要したのは私だった。夜中のアイスばかりは、一人より二人で食べるほうが絶対に美味(おい)しい。
 下ろした両側の窓を、潮の香りのする湿っぽい風が吹き抜けてゆく。
 ここから歩いて行ける場所には両親が二十年ばかり暮らした家があって、けれど一昨年の春に父が突然倒れて亡くなって以来、そこにはもう誰も住んでいない。たったの二年前まで、父も母も一応は元気でこの土地に暮らしていたのに、あっという間に二人ともいなくなってしまった。
 ここ十年ほどは、誰かから親の介護の話を聞かされるたび、他人事ではないと耳を傾けてきた。義姉ともたびたび話し合って、いよいよとなったら父のほうは私が家に引き取り、母については兄宅で、というような相談をしたこともあったのだ。でも結局、どちらも現実にはならなかった。父はただの一日も寝付くことなく、母は施設で手厚い介護を受けるだけ受けて、それぞれ予想より早く旅立ってしまった。
 夜風のせいばかりでなく、なんだか背中がすうすうする。
 食べ終えたアイスの棒を持ったままぼんやりしていたら、背の君がそれを私の手から取り、ポリ袋に入れて、わざわざコンビニのゴミ箱へ捨てに降りていった。
 がさつなくせにまめな男の背中を眺めやりながら、私は、喪失感とも解放感ともわからない気怠(けだる)さに身を任せていた。

 家で待っていた兄夫婦が私を迎えてくれた時、母は、皆が食事をするダイニング兼リビングの床に敷いた布団に仰向けに寝かされていた。父の時と同じ葬儀屋さんが来て、きちんと整えてくれたらしい。来客用の掛布団の花柄がのどかだった。
「疲れただろう」
「いやいやいや、兄貴たちこそ」
 いつもと変わらない温度で言葉を交わし、布団を横目にダイニングの椅子に腰を下ろす。さっぱりと化粧を落とした義姉の()れてくれるお茶を四人で飲みながら、明日からの葬儀関連の段取りなどについて話し合ううち、義姉がふと訊いた。
「あら? そういえば由佳ちゃん、お義母(かあ)さんのお顔はもう見たの?」
「それが、じつはまだ」
 兄がふっと苦笑する。
「会ってやりなよ。おふくろ、穏やかな顔してるぞ」
「うーん」
 気の進まないことおびただしいのだが、ずっと見ないでおくわけにもいくまいし、いやだと言えば兄が悲しむ。
 そばへ行き、枕元に正座して、顔にかかっている白い布を思いきって取りのける。
 母は、薄く口をひらいて眠っていた。想像していたよりもはるかに呑気(のんき)な死顔だった。
 私の記憶に染み着いている母の顔というのは、寝ている時でさえ険のあるぴりぴりとしたものだったのに、この寝顔のあっけらかんとしたことといったらどうだろう。
(──なんだ。怖くないや)
 それが、ほとんど唯一の感慨だった。
 それでも、長いこと眺めているにはやはりきついものがある。
「ごくろはんやったねえ。遅なってすまなんだ」
 とりあえずそれだけ謝って、白い布を再びかけた。
 案の定と言うべきか、涙は一滴もこぼれなかった。こみあげてくるものさえなかった。
 意外だったのは、そういう自分に対する嫌悪感や罪悪感がとくに湧かなかったことだ。もうずっと前から、母が死んだ時にさえ泣けないのではないかと想像しては困惑し、そんな自分は娘として以前に人としてどうなのかと苦しくてたまらなかったのに、今そのとおりになってみても、冷たいとか情けないとか申し訳ないといったような感情は湧いてこないのだった。母に対しても、誰に対してもだ。
 その晩、私と背の君は、同じリビングの床に布団を敷き、母の足元近くに枕を二つ並べて寝た。
 しっとりとした夜気の中、義姉の供えてくれた花瓶の花がほのかに香っていた。

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村山由佳(むらやま・ゆか)

 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。


本文写真 村山由佳
著者近影 山口真由子