24 熱い液体

 起きあがるなり、いつもの動物病院に電話をした。
 何か感染症でも……というのももちろんだけれど、それ以上に心配なのは、〈お(きぬ)〉が一度もおしっこをしていないことだった。
 昨日の夕方、Yさん宅から抱っこして連れ帰ったのが夕方五時頃。そのあと車に乗せ、長距離をひた走って家に着いたのが明け方、そして一眠りして今朝。部屋の隅には砂のトイレを用意してあるし、何度か中におろして教えているのに、おしっこもうんちもまったくしない。水は飲むのに、粗相した様子さえない。このままでは腎臓に負担がかかってしまう。
 おなじみ院長先生が電話口まで来て下さったので事情を話すと、午後にはすぐ診て下さることになった。
「ごめんな、お絹。車はイヤやろうけど、今度はちょっとだけやから我慢してな」
 バスケットはもう可哀想なので、〈もみじ〉にしていたように大きめの洗濯ネットに入れ、助手席の私が抱く。
 昨夜は後部座席で爆睡していたくせに、外が明るいと不安が増すのか、お絹は盛大に文句を言い始めた。
 あーう、あーーうう、ああーーーううう。
「よしよし、だいじょぶ、だいじょぶ」
 抱きかかえてなだめる。運転している背の君も今度は叱らない。
「もうちょっとや、我慢しぃ。すぐ着くからな」
 そうしてはからずも、二人の声が(そろ)った。
「もみじも最……」
 そう──もみじも最初のうちは、こんなふうに大声で文句を言い続けたものだった。病院通いが毎週のこととなる頃には落ちついたけれど。

 と、お絹が洗濯ネットを突き破らんばかりに激しくもがき、ひときわ大声で鳴いた。
 あああああああおおおおううう……。
 その瞬間、私の太腿(ふともも)に、じわあっと熱い液体がひろがってゆくのがわかった。
「あ、しよった、おしっこ!」
「ほんまか!」
 その証拠に、つうんと濃い異臭が鼻をつく。大量に出たぶん、スカート越しにタイツも下着もぐっしょりだが、
「ああ良かったあ、出た出た、ほんま良かった」
 ふぬぅ、と小さい鼻声で鳴き、情けない上目遣いでこちらを見ているお絹を、よしよし、えらいえらい、と()でてやる。もう少しも暴れない。あれは、このままではもらしてしまう、というぎりぎりの抵抗だったのか。
「我慢せんでよかったのに、あほやなぁもう。苦しかったやろに」
 考えてみれば、生まれてこのかたずっと外で用を足していたのだ。車や家の中では落ち着かなくて当たり前、というか、よほど強く禁忌のブレーキが働いたものらしい。
 信号待ちの間、背の君も横から手をのばしてきて、お絹を撫でさすった。
「何ちゅうやっちゃねん、けなげやのう。たまらんわ」

 いざ診察となると、お絹はびっくりするほどおとなしかった。エコー検査のために仰向(あおむ)けにされようが、お(なか)にジェルを塗られようが、まったく暴れもせずに院長先生とミホちゃん先生に身を委ねている。
 妊娠中の体に負担がかかるといけないので、詳しい血液検査などはお産が終わってからになったけれど、とりあえずお腹の子は、全部でおそらく三匹ではないかということだった。
 お絹自身、やはりまだ一歳にはなっていないらしい。猫は最初の一年で、人間で言えば十八歳になる。ということは、十五、六歳で妊娠したようなものだ。ヤンママもいいところだ。
 体もほんとうに小さい。お腹に赤ん坊と羊水が入っている状態でなお、体重は二キロ台後半。はたして、自然分娩(ぶんべん)ですんなり生まれてきてくれるだろうか。
 お腹のジェルをきれいに拭いてもらった後、待合室に戻ると、お絹は長椅子からひょいと窓辺に飛び乗り、可愛(かわい)らしい小鳥やハリネズミの置物を踏まないように上手によけてちんまり座り、外の緑を眺めた。
 奇しくも、もみじが生前いちばん気に入っていたコーナーだった。

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村山由佳(むらやま・ゆか)

 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。


本文写真 村山由佳
著者近影 山口真由子