33 難産

 まさかこんなに早いとは思わなかった。
 寝室へ飛び込むと、例のクッションのまわりには背の君と若夫婦が集まっていた。それぞれがコンパクトにしゃがんで見入る姿は、まるで道ばたで珍しい生きものを見つけた小学生みたいだ。
 その真ん中で、〈お(きぬ)〉は、さすがにちょっと苦しそうにもぞもぞしていた。いつもなら〈ごっきげーん!〉を絵に描いたような表情も、今は真剣なものに変わっている。真ん丸な青い目も、つり上がったように見える。
 見ると、なるほどお尻のまわりは淡いピンク色の羊水で濡れていた。〈汁と実〉の、実のほうはまた引っ込んでしまったらしい。
「何か体温を維持できるようなものありますか」と、インチョ先生。「生まれてきた子猫が冷えないように。なかったら車から持ってきますけど」
「あ、ありますあります」
 急いでチェストの下から平べったいユニクロの段ボール箱を引っ張り出す。産室候補として用意してあった箱には、あらかじめ犬猫用の薄い電熱マットが敷いてあった。〈もみじ〉が晩年使っていたものだ。

 よれていたタオルを整えて、お絹を中に横たえる。ごろんと転がっては(また)の間を気にして、前肢(まえあし)だけをついて起きあがり、くふ、くふ、と鼻を鳴らしながら息む彼女を、六人の大人が取り囲んで、なんだかあたりの酸素が薄くなった感じがする。
「お前ら、ちょっとそのへん散歩でもしてこい」とうとう背の君が言った。「ほんまに生まれそうンなったら教えたるから」
 言外に意味するところを察した若夫婦は、目顔で(うなず)き合うと、「わかりました」「ほならきっと呼んでなー」と言い残して寝室を出ていった。すぐにホールのほうから、ビリヤードの玉を()く音と、例によって仲よしの笑い声がきゃっきゃっと聞こえてくる。
 そうだ、そうそう、何もそんなに心配する必要はないのだった。なんたって猫のお産は安……。
「また出てきよった」
 はっとなって(のぞ)くと、半ば仰向(あおむ)けになって両の後肢をひろげたお絹のお尻のほうから、みみみみみ、と〈実〉が出てくるのがわかった。
「よしよし、えらいね、お絹」
 そうだよね、鼻面から出てくるんだよねえ。狭い産道を通ってくるから、初めはネズミの子かと思うくらい顔が細長いんだよねえ。
 などと、もう今すぐにでも感動するつもり満々で眺めていたのだが、どうもおかしい。鼻面にしては、やけにとんがっている。
(え、なにこれ)
 しかも、(ひも)みたいに細くて長い。なにこれ、なにこれ。
「しっぽ!?」
 ミホちゃん先生が叫ぶのと、インチョ先生が(うめ)くのが同時だった。
「うそ、逆子? この小ささで?」
 母体が、という意味だろう。
 ふんっ……ふんっ……と、お絹は懸命に息むのだが、子猫のお尻だか後肢だかがつっかえて、ちっとも出てこない。苦しくなって、ふう、と休むと、五センチにも満たない細いしっぽがしゅるしゅるとまた引っ込んでしまう。
「美穂」
 インチョ先生の声が変わった。
「あれ持ってきて」
「はい!」
 さっとミホちゃん先生が立ちあがって外へ走り、緊急用の医療箱を持って戻ってくる間に、インチョ先生は長くて綺麗(きれい)な黒髪を、ポケットから出したゴムで一つにくくった。
 すごい。一瞬で、医師の顔だ。今にも、「私、失敗しないので」とか言いだしそうだ。
 先生母娘(おやこ)がてきぱきと準備を整えるそばで、私は床に膝をついてお絹の上半身を支え、背の君がライトを持ってきて手もとを照らす。薄手のゴム手袋をはめたインチョ先生がお絹の上にかがみこむと、ただの部屋が手術室になった気がした。
 また、みみみみみ、としっぽが出てきた。
 インチョ先生がその先っぽをしっかりつまんで、手助けをするようにそうっとそうっと引っぱる。
 アーオ、と鳴いたお絹が息をつくと同時に、またしっぽがしゅるんっと引っ込む。粘液に()れてぬるぬる滑るせいもあるけれど、しっぽからつながる子猫の背骨なんて、どんなに細くて(もろ)いことだろう。脊椎脱臼の危険を考えるとあまり強く引っぱることができないのだ。
 事ここに至っても、お絹は嫌がる様子もなく、全身を私たちに委ねてくれている。
 みみみみみ。……しゅるん。
 みみみみみみみ。……しゅるん。
 数分おきのそれが何度かくり返されるたび、羊水が少しずつ(あふ)れ出てしまう。このままでは母体にも子猫にも負担がかかりすぎる。先生二人の顔つきがどんどん険しくなってゆく。
 みみみみみみみ。……しゅるん。
 インチョ先生が、額に汗をにじませ、息をついた。
「次で駄目だったら、帝王切開のほうがいいかもしれません」
 もちろん、病院へ連れていって、ということだ。
 悪い冗談のようだった。じつのところ私自身が、五十数年前、同じような苦労を母親にかけて生まれてきたのだ。逆子ではなかったけれど過熟児で、難産で、羊水がぜんぶ先に出てしまい、狼狽(ろうばい)した主治医が近隣の産科医まで呼び集めての緊急帝王切開となった。全身麻酔は赤ん坊の脳に影響が出るというので、部分麻酔でのおそろしく痛い手術だったそうだ。私の左耳の上あたり、髪をかき分けた地肌にはいまだに、このとき母のお(なか)の皮と一緒に切られたメスの痕が残っている。

「お絹ちゃん」私は、両手で押さえている小さな母猫の顔を覗きこんだ。「あとひと息やん。な、頼むわ、頑張って」
「知らんぞ、お絹」と、明かりをかざしている背の君も言う。「ここで産んどかんとキツイぞ」
 ふんっ、ふんっ、と小刻みに息をついていたお絹が、うーーん、と息みだす。
 間髪をいれず、ミホちゃん先生が両肢を保定し、現れたしっぽをインチョ先生がつまんだ。と思ったら、もっと奥へと指を差し入れた。左手でお絹のその部分を押さえながらも、右手の人差し指と親指で中のものをつまみ、できる限りゆっくり、そっと、けれどしっかりと引っぱる。
 思わず、すぐそばの写真立てを見上げていた。
(もみじ。お願い、守って)
 アアアアオウ、とお絹が苦しげに鳴く。インチョ先生が、ごめんね、もう少しよ、ごめんね、と(つぶや)きながら、二本の指でつまんでいるものを引っぱる。
 と、いきなり、ずるりんっと塊が現れた。
「出たーー!」

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村山由佳(むらやま・ゆか)

 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。


本文写真 村山由佳
著者近影 山口真由子