39 母性神話と猫

 いくらヒトの赤ん坊より子猫のほうが百倍可愛く思える、といったところで、私だってべつだん、人間の子どもが嫌いというわけではない。
 いや……いや、どうだろう、どちらかというと嫌いなのかもしれない。少なくとも積極的に好きではない。
 過去における二度の結婚で子どもを産まなかったのはそのせいではなく、ただ妊娠しにくい体質というだけだったけれど、あえて不妊治療をしようと思わなかったについてはやはりそういう理由もなくはない。産んでも、愛する自信がなかった。自分が母親に対して抱いていた感情と同じく、いつか我が子から〈お母さんにだけは似たくない〉と思われてしまうことを想像すると怖かったし、それ以上に、我が子がうっかり自分に似てしまう可能性を思うとぞっとした。
 そういえば〈旦那さん二号〉は、まだ旦那さんになる前、真面目な顔で私にこう言った。
「そんなこと気にしなくても大丈夫だよ。あなたは自分のことを冷たくて()めてると思ってるみたいだけど、ほんとうはすごく愛情深いひとなんだから、いざ産んでみればちゃんと愛せるようになるよ。だいたい、猫や犬や馬をあんなに可愛がってるあなたが、人間の子どもだけ愛せないなんてはずがないじゃない」
 たぶん、彼としてはここぞというくらいの決めゼリフだったんだろうと思う。
 でも、その当時でさえ、私は(うなず)けなかった。
「そうかなあ」
 (つぶや)きつつ、心の中では思っていた。
(だって、猫や犬や馬はもとから可愛いじゃないの)
 もともと可愛いと感じる相手のことを愛せるようになるのは当たり前だ。こっちは人間の子をなかなか可愛いと思えず、だから産むのが怖いと言っているのに、全然わかっちょらん。
 私が人間の赤ん坊に抱く感情は、その相手との距離と深く関連している。距離があればあるほど、あら可愛い、と口にできる。すれ違いざまや、テレビで見かける赤ちゃんはたいてい可愛い。責任を負わなくていいので気が楽なのだ。
 身内の産んだ子も、そこそこ可愛い。赤ん坊には、こちらが長年にわたって成長を見守ってきた若い親との思い出までもが一緒に受け継がれるので、無事に生まれてくれば感動もするし、似ているところが見つかれば興味深いし、成長を一緒になって喜ぶこともできる。そうしてやがて、その子本人への思い入れや情といったものが積み重なって愛しさにもなってゆく。
 あるいはまた、友人の子どももそうだ。彼らが子連れで我が家を訪ねてくるのは嫌いじゃない。あくまでその友人を好もしく思っていることが大前提だが、そのひとのこれまでの半生について何ごとかを知っていればいるだけ、彼らが自分の子と接する様子から、いまの幸せを垣間見るのはしみじみと感慨深い。
 ただし、どの場合も、私自身はどうやって子どもに触っていいのかわからないので、いきなり向こうからやってきて膝に乗られたりすると、狼狽(ろうばい)のあまり硬直する。野生の小動物を手なずけたようでちょっと(うれ)しい半面、こらこら、相手をちゃんと見てから行動しなさいよ、あんたが思っているほどおばちゃんは無害じゃないんだよ、と思う。
 そして同時に、罪悪感も覚える。その子に対してというより、見えない世間に対するものだ。
 柔らかくて、熱くて、ちょっと乳臭い子どもの身体(からだ)を抱いた時、自分の中から自動的に(いと)おしさが湧き上がってこないことへの後ろめたさ。
 常日頃、母性神話なんか(くそ)食らえと思っている私ですら、なかなかそこから自由にはなりきれない。

 

 自分で言うのもどうかと思うけれど、この身体の中には、愛情がこんこんと湧き出す泉があるらしい。ただし、注がれる先はものすごく限られていて、なるほど〈愛情深い〉と言われればその通りかもしれないが、そのぶん〈狭い〉。
 そのくせ他人から嫌われるのは怖いものだから、脊髄反射的に愛想よく接し、いちばん近くにいる人間にさえ本心を隠して笑顔の仮面を向ける。そのうちに、だんだん疲れが()まってゆく。金属疲労よろしく、いきなりポキンと折れる。そのようにして壊れて(壊して)しまった人間関係が、これまでいくつもあった。(うそ)をつかずに自分をさらけ出せた相手は、猫だけだったのだ。物心ついて以来、半世紀の間。
 ──猫。
 あらゆる動物の中でもとくに〈猫〉という生きものこそは、私にとって、ずっと特別な存在だった。
 どれほど助けてもらったことだろう。自分の母親を愛せなくて苦しかった子どもとしての私も、また、自分の子を愛せる気がしなくてついぞ母親になれなかった私も、そのつど傍らにいた猫たちに救われてきた。猫だけは無条件に愛することができたし、彼らもまた私の愛を無制限に受け()れてくれた。
 こういうことを考えていると、たまらなく〈もみじ〉が(おも)われる。
 彼女の写真を眺めていると今でも、心臓がぎゅうっと収縮して涙がこみあげてくる。悲しいだけの涙じゃなく、ただただ会いたい、会って抱きしめたいのだ。愛しさが激しく渦巻くあまり、まるで小さくて凶暴な竜巻を抱え込んでいるみたいになって、内臓がずたずたに切り裂かれる思いがする。
 でも、
「な、もみちゃん……」
〈祭壇〉に飾った写真に向かって話しかけていると、なぜか必ず〈お(きぬ)〉が子らを残してそばへ来て、青く澄んだ瞳で私をひたと見つめる。こちらの声の調子に反応するのだろうとは思うものの、勝手に慰めてもらっている心地がする。

 柔らかくて、熱くて、ちょっと乳臭い身体。抱きしめると、何があっても守ってやりたいという衝動に息が苦しくなる。
 身の(うち)に渦巻く竜巻を無理に抱え込んでいなくても、湧き出す愛情を思う存分注いでやれる相手がいる、ということ。それほどの幸せが他にあるだろうか。
 しっとり湿った彼女のお(なか)()でながら、
「よかったな」
 と、背の君が私の顔を見る。
「ほんまやな。なぁお絹ちゃん、インチョ先生がおらんかったらあんた今ごろ……」
「いや、お前がや」
「え、私?」
「もみじがおらんようになってからもうずっと、お前、(わろ)てても笑てへんみたいやったけど、今は顔つきが全然ちゃうがな。──よかったな。お絹と逢えて」
 自分のことを言われているとわかるのだろうか。母親になっても相変わらず小さな猫は、私たちを交互に見上げ、前肢(まえあし)の爪をニギニギして甘えながら、青い目をすうっと細めてみせた。

 

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村山由佳(むらやま・ゆか)

 1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。


本文写真 村山由佳
著者近影 山口真由子