14 バスキア博士の解剖学


1988年8月12日、ニューヨークのアトリエで、ハイチ系アメリカ人画家のジャン=ミシェル・バスキア(1960−1988)が、ヘロインなどの薬物過剰摂取により死亡しているのが発見された。まだ27歳だった。皮肉なことにバスキアは、早死にしたことで伝説化し、死後も評価が高まるばかり。拳銃で自殺したゴッホや、愛人と交通事故死したジャクソン・ポロックと同じように美術史に名を刻んでいる。
 
激しい筆さばきと記号的な言葉を画面に描きこむバスキアのスタイルは、日本の美術界にも大きな影響を与えた。日比野克彦は80年代にバスキア風のイラストレーションで大スターとなり、グラフィックデザイナーとして活躍していた横尾忠則は突然「画家宣言」し、絵を描きはじめた。現代美術界のスターである大竹伸朗(しんろう)五木田(ごきた)智央(ともお)奈良(なら)美智(よしとも)なども、みな多かれ少なかれバスキアの影響を受けている。もはやバスキアとは、単なるひとりの画家ではなく、ミニマリズムやコンセプチュアルアートの流行で死んでしまった絵画を、華やかに再興させた「80年代絵画ルネサンス」の救世主となったと言っていいだろう。


バスキアは、1960年12月22日ニューヨークのブルックリンで生まれた。亡くなって約30年経つが、もし生きていれば今年59歳になる。父は、ハイチ出身の公認会計士。母は、プエルトリコ出身だった。
絵を描きはじめたのは、ファッションに興味があった母の影響。ニューヨーク近代美術館(MoMA)やメトロポリタン美術館が遊び場だった。小学校に入学した頃には友人と絵本を作ったりして遊んでいたというから、早熟な少年だったに違いない。
7歳の時、路上でボール遊びをしていて車にはねられ腕を骨折、膵臓を摘出する大手術のため入院した。そんな時に、母がプレゼントしてくれた本が『グレイの解剖学(Gray’s Anatomy)』だった。この解剖学書は、1858年にイギリスで出版された解剖学者ヘンリー・グレイによる医学生向けの教科書(グレイは、20代から画期的な論文を発表し、天然痘に感染し34歳で死亡した天才解剖学者)。そんな解剖学の本に載っていた図版をバスキア少年は、何度も読み込み、大きな影響を受けた。そして、図鑑のように絵と言葉で表現する「解剖学書的な描き方」は、生涯にわたり、彼の作品の重要なスタイルとなっていった。
 
悲劇は続いた。交通事故にあった年、両親が離婚。バスキアは、父と妹2人で暮らすことになるが、家族関係はうまくいかなかった。15歳の頃には、家出をして警察に保護された。学校へ行っても長続きはしない。父とも喧嘩ばかりしていた。
そんな多感な16歳の頃、同じ高校に通っていた友人のアル・ディアズと、いかさま宗教集団のキャラクター「セイモ/SAMO」(Same Old Shit=「いつものたわごと」という意味)を作り出した。これは偶然、学校の新聞で発表したのがきっかけだった。そして、マンハッタンの至るところにスプレーでグラフィティを描き、「SAMO」とサインしてまわった。哲学的で詩的なメッセージ性の高いラップのような「言葉のグラフィティ」は、地元で話題となり人気のアーティストとして知られるようになっていった。少年時代、読書が大好きだったバスキアは、スペイン語、フランス語、英語の読み書きができたらしい。詩や音楽を愛する文学青年だったことも言葉を使う作風に大きな影響を与えているに違いない。


17歳になると再び家出をして、お金がない時は、自分の身体を売ったり、自作のポストカードやTシャツを売ったりしながら、なんとかニューヨークで生き延びた。この頃、憧れのアンディ・ウォーホルにレストランでばったり出会い、ポストカードを売りつけたこともあった。とにかく、「その日暮らしの生活から抜け出して、人間らしい暮らしがしたい。そして、有名な画家になって、家族や友人を見返してやりたい……」。彼は、富と名声に強い憧れを抱くようになっていった。
バスキアは「金髪のモヒカン刈り」という目立つ髪型のおかげで念願が叶い、あっという間にクラブなどで有名になり、後に映画「バッファロー’66」の監督、俳優として有名になったヴィンセント・ギャロと実験的なノイズバンド「GRAY」を結成し、音楽活動もはじめた。さらに、20歳の時、知り合いのギャラリーオーナーに誘われ、イタリアのモデナではじめて「SAMO」として個展を開催することになった。21歳の時には、アメリカのノセイギャラリーでも個展。やはり作品は「解剖」がテーマの連作だった。東京のアキライケダギャラリーでも個展を開催するため、来日し、1週間ほど滞在した。この当時、バスキアの作品価格は高騰していたとは言ってもまだ1点300万円程度。今は、億単位で取引されており、信じられないくらい価格が高騰したことがよくわかる。
バスキアの作品を見ていると、様々な美術界の巨匠の絵画が解剖され、標本のように並べられたように見えるのが興味深い。そして、評論家は言葉を使って深読みしながら語ることができる。ここがとても重要だった。黒人への人種差別、社会問題などをテーマに描いていることが多いが、やはり目にとまるのは「美術史」を描いているという部分だ。子どもの頃から母親とニューヨーク中の美術館に通って、様々な美術教育プログラムにも参加していたせいもあるのだろう。彼の作品は、西洋美術の歴史を黒板に殴り描きしながら解説しているような魅力がある。


「バスキア様式」はどのように作られたのか? ちょっと解剖してみよう。
 
子どものようなタッチは、ジャン・デュビュッフェ。
スピード感溢れる線は、サイ・トゥオンブリー。
極太の筆さばきは、フランツ・クライン。
キュビスム的人物は、パブロ・ピカソ。
寄せ集める手法は、ロバート・ラウシェンバーグ。
象形文字的な記号のモチーフは、A.R.ペンクから影響を受けている。
 
さらに、線と言葉の羅列には、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた大量の解剖図を思い出す。実際に、レオナルドの作品集をプレゼントされたこともあり、大きな影響を受けたらしい(モナ・リザまで描いているほど大好きだった)。麻薬に溺れ、若くして衰弱死した黒人のジャズミュージシャン、チャーリー・パーカーも彼にとっては憧れ。作品にも音楽の要素が溶け込んでいる。バスキアの筆は、ジャズセッションのように自由自在に動き、コラージュされた記憶が、激しい線と原色で塗り込められていく。言葉は、並列に配置され、情報が混ざり合い、図解し、歴史を再解釈している。まるで物理学者のアインシュタインが相対性理論の有名な方程式「E=mc2」を書いた黒板にも似ている。我々は、バスキアが発見した秘密の方程式を、じっと眺めているのだ。落書きにも見える作品の中に隠された、記号を読み解いたり、発掘したりする。バスキアの作品の前に立つと、ラスコーの壁画のようにストリート(洞窟)から生まれた巨大絵画が進化した最終形態にも感じるのだ。


1983年、バスキアはポップアートの神話的存在になっていたアンディ・ウォーホルに認められて、コラボレーション作品を制作しはじめる。この頃は、歌手のマドンナとも付き合うようになっていた。人気は絶頂で、作品もどんどん評価が高まっていた。さらに、当時ニューヨークの有力画廊であった「メアリー・ブーン」と組み仕事をはじめるようになり、成功も保証されていた。
そんな中、1987年にウォーホルが心臓発作で亡くなってしまう。まだ58歳という若さだった。ショックを受けたバスキアは、ウォーホルに捧げる「墓」という作品を作った。それほどまでに敬愛していたのだろう。そして、癒しを求めハワイ、マウイ島の牧場に通って、未来に向けて着々と、新作を作り続けていた。この時、最後の恋人であったケレ・インマンには、これからは絵を描くのをやめて物書きになりたい、と話していた。さらに別の友人には音楽をやりたい、テキーラの醸造所を作りたいと夢を語っていたという。
 
しかし、1988年8月12日、薬物の過剰摂取によりバスキアは死んだ。突然の成功と不安がヘロイン中毒にさせてしまったのか。あるいは、創作のため薬物に依存していたのか。
恋人がアトリエを訪ねたらすでに冷たくなっていた。彼は、知名度が上がるにつれて、アート業界での居場所や、人気に不安を抱くようになり、薬の使用が目立つようになったという。誰からも注目されなくなる不安や恐怖感をウォーホルにも打ち明けていたという。幼い頃から富と名声に憧れ、ミュージシャンのジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンのようになりたいと強く願っていたバスキアだが、すべてを手に入れた瞬間にすべてを失ってしまった。そして偶然にも、27歳で亡くなったジミヘンやジャニスと同じ年齢の死だった。
 
バスキアは、成功したいという夢を強く願いすぎて、すべてが本当に叶ってしまったのだ。

 
 
 

【参考文献】
レオンハルト・エメルリンク『ジャン=ミシェル・バスキア』Fumie Nosaka訳(タッシェン・ジャパン)
 
【展覧会情報】
「バスキア展 メイド・イン・ジャパン」
会場:森アーツセンターギャラリー(東京都港区)
2019年9月21日(土)~11月17日(日)

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。