15 呪われた画家モディリアーニと死を予言したジャンヌ


1920年1月24日。まるでギリシャ彫刻のように美しい画家が死んだ。彼の名は、アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)。極貧の中でも傑作を残し、酒と薬物に溺れ、最後は結核性脳膜炎で亡くなった。まだ35歳の若さだった。2日後、妻ジャンヌも後を追い、アパートの窓から飛び降り死んだ。21歳という若さで、妊娠8ヶ月だった。
残されたのは、画家を目指していたジャンヌが死を予言するように描いた「ナイフで自殺する自画像」。真っ赤なスカートをはいて、ベッドの上で胸を突き刺し、血を流しながら横たわるジャンヌが生々しく描かれていた。自らの死が近いことを悟っていたのだろうか。あまり知られていないが、ジャンヌも多くの素晴らしい作品を描いている。生きていればきっと、時代を代表する画家になっていたに違いない。
 
モディリアーニは死ぬ半年前、作品がようやく評価されはじめ、高値で売れた。もし生きていたら、同時代に活躍したモネやピカソたちと同じように幸せな芸術家人生を送れたかもしれない。数年前、モディリアーニの「横たわる裸婦」がオークションで1億7000万ドル(約210億円)という破格の金額で落札された。死ぬ間際、病院に行けないほど貧しかったが、天国でこのオークションの落札価格を知ったらどんな風に思うのだろうか。モディリアーニは、画商だったズボロフスキーから1日わずか15フランの給料をもらい、絵を描いていた。そんなモディリアーニが、いまや世界で最も高値のつく画家のひとりと呼ばれるようになったのだから人生は皮肉なものだ。 


モディリアーニは、セザンヌとゴーギャンに憧れていた。シンプルな色彩で塗られた背景。造形的な線と形。おそらく最も影響を受けたのはセザンヌだ。セザンヌの「赤いチョッキの少年」の模写をつねに持ち歩いていたというから相当なファンだったのだろう。
 
モディリアーニは、インドの詩人タゴールの詩を読み、ギメ美術館(実業家エミール・ギメが収集した東洋美術専門の美術館)に通った。民族学博物館などでアフリカの仮面を見ながら創作のヒントを探しもした。そして、中間色を使う古いイタリア絵画と造形を強調するアフリカ彫刻、さらにインドやカンボジアなどの東洋美術を混ぜ、独自のスタイルを確立した。謎めいたアルカイックスマイル。青く塗りつぶされたアーモンドのような目。縦に細長く引き伸ばされた顔と首を繰り返し描いた。


モディリアーニの父はローマの商人一族の出身。母方のガルシン家は、トスカーナ地方の由緒あるスペイン系ユダヤ人の一族だった。しかし、生まれた後、すぐに家は破産してしまう。いきなりの貧乏生活の中、病弱で家に引きこもりがちだったが、14歳の頃からアトリエに通い、絵を描きはじめた。父は、そんな息子のことを愛情を込めて「ボッティチェリ」と呼んだ。もしかするとこのような体験もその後の彼の人生に影響があったのかもしれない。実際に、彼はルネサンスの巨匠ボッティチェリの優美さ、甘美さ、普遍性に憧れるようになっていった。
 
モディリアーニは身体が弱く、16歳の頃は肺結核を患っていた。そこで母は、息子をナポリ、ローマなど南イタリアの旅行に連れて行った。そこで目にした絵画や彫刻が彼の人生を変えた。
特に14世紀ゴシック期のシエナ派と呼ばれる彫刻家のひとり、ティーノ・ディ・カマイノがお気に入りだったという。またシエナ派の画家が描いた夢のようで普遍的な存在感を持つ聖母マリア像は、彼が生涯にわたって制作した絵画の原点となった。19歳の年に、ヴェネツィアの美術研究所に入学。そこでは、後に「未来派」の中心的人物となるウンベルト・ボッチョーニとも知り合いになった。
しかし、モディリアーニは、スピードやテクノロジーを神とあがめ、近未来的なダイナミズムを追求した芸術運動の「未来派」には参加せず、ピカソが追求したキュビスムにも追従しなかった。彼が求めたのは未来ではなく美しき過去や歴史、原初的な美。「未来派」というよりは「過去派」と呼ぶべき芸術だった。最後の最後まで、昔ながらの造形美や物に宿る精神性を愛したのだ。
 
まずモディリアーニは彫刻家を目指した。当時流行していたアフリカの仮面を自分の造形に取り入れた。彼の彫刻作品を見ると、ギニア、ガボン、カメルーン周辺に住むファン族の仮面そっくりだ。ファン族の細長い仮面「ジル」は、犯罪や争いを裁く精霊の化身となるための道具。モディリアーニは、このプリミティヴで精神性の高い造形に新しいスタイルの可能性を見いだしたのだろう。


1916年の暮れ、モディリアーニは、青い瞳で白鳥のように長い首を持つ、理想のモデルを見つけた。アフリカの彫刻のように美しい画学生ジャンヌ・エビュテルヌだ。自らの彫刻家としての才能に限界を感じていた彼は、ジャンヌと出会うことで絵画の制作に傾倒していった。ジャンヌは、実は友人の画家、藤田嗣治(つぐはる)の元モデルでもあった。物静かで控えめな性格の女性で、色が白く「ココナッツ」と呼ばれていた。自分がデザインした奇抜な洋服に身を包み、バイオリンを弾くお嬢様だった。2人は、やがてアトリエを借りて一緒に住みはじめた。この時、モディリアーニは33歳、ジャンヌは19歳。
 
そして、精力的に絵画制作を開始したモディリアーニは、初めての個展を開くことになった。しかし、注目を集めようと頑張りすぎたのか、べルト・ヴェイユ画廊のショーウィンドウにずらりと裸婦像を並べる。これが「わいせつ」だとされ、警察によって撤去の警告を受けてしまった。ようやく開催できた初個展は一日目にして終わってしまう。もちろん作品は、まったく売れなかった。
 
ヤケになったモディリアーニは夜な夜な酒浸りの生活を続けた。ジャンヌは家に帰らないモディリアーニを酒場で見つけては、連れて帰ろうとした。しかしモディリアーニは、そんな優しいジャンヌの髪を手荒く引っ張って、リュクサンブール公園の鉄柵に打ちつけたこともある。信じられないようなDV夫だが、ジャンヌは一切文句も言わず、モディリアーニを支えた。


酒浸りになり、暴力をふるいながらもモディリアーニは、ジャンヌを何度も繰り返し描いた。ほっそりと縦に長いプロポーション。上半身はゆるやかに傾き、アーモンド形の眼は青く塗りつぶされ黒目がなくなっていった。晩年の典型的な人物像はジャンヌがモデルだった。1818年には子どもが生まれ、母と同じジャンヌと名付けられた。
翌年、ロンドンでの「フランス現代美術」展に出品した作品がようやく高値で売れた。新聞で高く評価されたこともあって、これまでの最高額の1000フランだった。モディリアーニはようやく、画家としての希望が見えてきた。新しいアトリエを借りて、部屋をきれいにペンキで塗り直した。1階下は、憧れのゴーギャンがかつて住んでいた場所。精神的なスターだったゴーギャンに対する尊敬の気持ちが強かったのだろうか。あるいは巨匠の部屋の上に住むことで、彼を超えたいと考えたのかもしれない。アトリエの壁には、自分の人生が西洋文明から切り離されることを祈り、ゴーギャン風に赤やオレンジで絵を描いた。
 
それでも酒と薬物が止められず、一晩中パリの街をさまよって絵を押し売りした。彼が描く憂いを帯びた表情の人物像は、画家が苦しめば苦しむほど魅力を増していったのだ。その結果、生活は荒れ果て、肺結核が悪化。高値で絵が売れた半年後に亡くなってしまった。そして、ジャンヌも後追い自殺した。
死の直前、約2年間に集中して制作された作品は美術史の伝説となり、世界で最も有名な画家のひとりとなる。日本でも竹久夢二がモディリアーニから影響を受けた美人画をたくさん描いたため、首長で目を塗りつぶす画風はいまなお、日本画、西洋画、イラストレーションの世界で愛されている。生前、モディリアーニは「モディ」と呼ばれたが、これはフランス語の「モディ(Maudit)=呪われた」という皮肉な意味も込められていた。呪われた画家と呼ばれたモディリアーニは、本当に呪われるように死んでしまったのだ。
ひとり残された娘ジャンヌは、モディリアーニの姉が育てた。そして、有名な美術史家になった。研究対象はゴッホと、愛する父アメデオ・モディリアーニだった。

 
 
 

【参考文献】
キャロル・マン『アメデオ・モディリアーニ』田中久和訳(パルコ出版局)
橋本治、宮下規久朗『モディリアーニの恋人』(新潮社)
宮下規久朗『モディリアーニ モンパルナスの伝説 』(小学館)
 
【展覧会情報】
「オランジュリー美術館 ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」
会場:横浜美術館(神奈川県横浜市)
2019年9月21日(土)~2020年1月13日(月・祝)

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。