04 天才ピカソの奇妙な恋愛


ピカソは、人生の最後にこんな哀れな自画像を描いた。
画家として成功し、華やかな人生を送った男とは思えない孤独な肖像画だ。
 
ピカソは、恋人がたくさんいたが、結婚したのは2回。3人の女性との間に4人の子どもがいた。女性が筆であり、絵の具なのだ。青の時代、バラ色の時代、キュビズム、新古典主義、シュルレアリスム。163cmの小柄な肉体で、カメレオンのようにスタイルを変えながら、創造と破壊を続けた。
死の2年前、写真家のブラッサイに向かって、ピカソはこう言った「90歳になったので、セックスとタバコは止めることにしたよ。だがなかなか思い切れなくてね」。そして、南仏にあるムージャンの自宅で亡くなった。葬儀は、かつての妻オルガ・コクローヴァの息子、パオロが取り仕切った。ピカソの希望通り、遺体はヴォーヴナルグ城の階段のふもとに埋葬されたが、巨大な岩盤があることを考えに入れていなかったので、埋めるのに苦労した。それを見た元恋人のマリー・テレーズは、その時「彼のお葬式にふさわしい光景ね」と妻のジャクリーヌ・ロックに言った。


パブロ・ピカソ(1881-1973)は、スペインのマラガ生まれ。幼い頃から読み書きができず、大人になっても、アルファベットをすべては覚えられなかったと言われている。
19歳の頃、フランスのパリに渡り、91歳で亡くなるまでに油絵、版画、彫刻など生涯に約15万点もの作品を遺した。
 
天才ピカソ誕生の秘密は、彼の「両親」に隠されていた。ピカソの父、ホセ・ルイス・ブラスコは売れない画家。表向きは美術教師だったことになっている。母マリア・ピカソ・ロペスは、ぶどう農園を持っていて一家の収入を補っていた。ピカソ少年は、売れないヒモのような生活をしていた画家の父を、なんとかして乗り越えたいと強く願ったに違いない。8歳の頃、少年ピカソがリンゴの絵を描いたら、あまりに上手くて、画家である父が絵を描くことを断念したというエピソードも残されている。そして、母マリアの唯一の願いは、息子が「画家として成功すること」だった。
ピカソは20歳の頃、親友のカサヘマスが自殺したことがきっかけで生まれ変わりたいと考えたのか、父ではなく、母の名前の「ピカソ」を名乗るようになった。貧しかったピカソは画家として成功し、母の夢を叶えることに一生執着していたのかもしれない。


ピカソの最初の妻は、ロシア貴族出身のオルガ・コクローヴァ。ロシア・バレエ団のダンサーで、亡命した帝政ロシア将軍の娘だった。当時ピカソは36歳、オルガは27歳。「青の時代」「バラ色の時代」が評価され、成功しはじめていたピカソに惹かれたオルガと、もっと有名になりたい野心的なピカソ。すぐに2人は結婚してパオロが生まれた。そして、息子や妻オルガの肖像画をたくさん描いた。さらにオルガに「私にもわかるような顔に描いて」と言われたことで、作風も「新古典主義」時代へと変化していったのだ。またオルガは、ピカソと上流階級の顧客との橋渡しという重要な役割も担った。
結婚後10年も経ち、オルガとの関係が冷えてきた頃、ピカソがナンパして出会ったのが、当時17歳の美少女でピカソ最高のミューズだったマリー・テレーズ・ヴァルテル。彼女のおかげで、ピカソの作風は、神経質な画風のオルガ時代とは違い、カラフルで優雅な曲線を描くように変化していった。ピカソは財産分与を嫌がったため、オルガとは離婚しなかったが、マリー・テレーズとの間にも子どもがひとり生まれた。この頃のピカソの創作は絶好調。私生活のドロドロとは裏腹に、色彩豊かな傑作を続々と完成させていった。


マリー・テレーズとの娘マヤが生まれる直前、ピカソは、マン・レイの元助手であり、写真家として活動していたドラ・マールと出会った。子どもの頃アルゼンチンで育った彼女は、スペイン語を話せたため、ピカソの良き聞き手役であり、良き理解者となったのだ。しかし、後に彼女は「ピカソに近づいたのは、彼の写真を撮るためだった」と告白。実際に、大作「ゲルニカ」の制作過程を記録し、彼女が写真家として評価される代表作となった。
そんなドラ・マールは、よく泣いた。しかし、その姿をピカソが好んで描いたため最高傑作とされる「泣く女」など多くの作品を生み出した。彼女の涙は、「ゲルニカ」の創作にも大きな影響を与えたのかもしれない。さらに「ドラ・マールの肖像」などモデルとしても数多くの作品に登場し、ピカソの名声を支えた。また当時、ピカソが熱中していた石膏、金属、粘土の作品を大量に作った協力者としてもドラ・マールの存在、刺激は重要だったのだろう。
さらにドラ・マールとピカソが行きつけのレストランにいた時、ある女性と出会う。フランソワーズ・ジローだ。ピカソは61歳、フランソワーズは21歳の画学生。彼女はソルボンヌを出て画家をめざしていた。


当時、同じパリには、別居する正妻オルガと息子のパオロ、元恋人のマリー・テレーズと娘マヤ、元恋人のドラ・マールがいた。しかし、惹かれあったフランソワーズ・ジローとピカソは、南仏プロヴァンスに引っ越し、無事に結ばれ息子クロードと娘パロマが生まれる。そんな中でも身勝手な振る舞いのピカソ。呆れたフランソワーズは彼を捨て、子どもを連れてパリに帰っていった。そして、彼女は若い恋人を作り、画家として活動をはじめるが、ピカソが嫌がらせをして泥沼状態になる。さらに、フランソワーズは、ピカソについて書いた暴露本『ピカソとの生活』(共著)をアメリカで出版した。
フランソワーズが去った頃、南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていた27歳のジャクリーヌ・ロックに出会う。72歳のピカソは、一目惚れ。猛アタックの末、付き合うこととなり、最初の妻オルガが亡くなった後に結婚。ジャクリーヌは2番目の妻となり、数えきれないほどの作品のモデルとなった。また「花とジャクリーヌ」など太い眉毛と黒い瞳の女性像は、ピカソの晩年の作品の代名詞ともなった。
女性にだらしないひどい男にも見えるピカソだが、亡くなった後、恋人たちが続々と後追い自殺をしてしまうのが驚きだ。マリー・テレーズは首を吊って自殺し、ジャクリーヌ・ロックは拳銃自殺した。妻にも恋人にもそれほどまでに大きな影響を与えるほど、人間としても魅力があったのだろう。ピカソの人生を改めて振り返ってみると「キュビズム」という名の多面的絵画表現のような人生を90年かけて完成させたように思えてくるのだ。
ピカソの元恋人であるドラ・マールはこんな言葉を遺している。
「彼の妻や恋人が変われば、彼の芸術にも変化が起きる」
まさに、ピカソの作風遍歴は、女性遍歴そのものだったのだ。

 
 
 

【参考文献】
ロイ・マグレゴル=ヘイスティ『ピカソの女たち』東珠樹訳(美術公論社)
 
【展覧会情報】
「フィリップス・コレクション展」
2019年2月11日(月)まで三菱一号館美術館(東京都千代田区)にて開催中。
ピカソをはじめ、ドガ、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、クレーなど巨匠たちの作品75点が一堂に会する。

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。