16 「現実」と「非現実」の隙間で暮らした男 マグリット


どんよりとした暗い空の下に立つ顔のない山高帽の男。
意味ありげな青いリンゴで顔が隠された、この不気味な男は、いったい誰なのか。
 
ベルギーのシュルレアリスト、ルネ・マグリット(1898-1967)の作品には、山高帽の男が頻繁に登場する。雨のように空からたくさんの山高帽の男が降ってくる作品や、鳩で顔が隠されている作品もあり、マグリットの代名詞的モチーフとなっている。鑑賞する者は、この山高帽の男を、彼自身の姿(あるいは分身)だと思わされる。マグリット自身が帽子をかぶっている有名な肖像写真があるから、そう勘違いしてもおかしくはない。
 
だが、これらの写真は1950年代以降の晩年のもので、特に有名な写真は彼の死の2年前にニューヨークのカメラマン、デュアンヌ・ミカエルが絵画の作品をイメージし、演出して撮影したものだ。画家マグリットの、真実の姿を写したわけではない。


実は、絵の中に登場する山高帽の男は、マグリットではなく、彼の父レオポルがモデルだ。実際に残されている父の写真を見るとよくわかる。仕立ての美しいスーツに身を包み、威圧的に立つあの山高帽の男は、まさに父レオポルそのもの。山高帽の男とボッティチェリのヴィーナスが合成されて描かれたこともあるが、これはまさにマグリットの両親を描いた肖像画だ。威厳のある父と、若くして亡くなった美しき母の霊を慰めるために捧げた鎮魂の一枚に違いない。
 
父レオポルは、元々は洋服の仕立屋、母レジナは裕福な肉屋の娘で、お針子をしていた。しかし、父は浪費家で競馬などのギャンブルが大好き。いつも家にいないので、マグリットの作品では顔が消え、山高帽をかぶっている。そして、リンゴという禁断の果実で顔を隠している。


マグリットが13歳になった、ある夜のこと。母レジナは部屋で子どもを寝かしつけると、家を抜け出した。レジナは亡くなる以前の数年間、自殺未遂を繰り返していたらしく、父は母が自殺しないように寝室に鍵をかけて閉じこめていたこともあったという。
行方不明となった母は、地元の新聞で「ノイローゼの女性が行方不明」と報じられた。そして約1ヶ月後、地元のサンブル川下流の河川敷で遺体として発見される。
 
母レジナが川に飛び込み自殺した原因は、父レオポルにあるといわれている。マグリットが小さい頃は、仕立屋の仕事がうまくいかず、経済的に不安定だった。しかし、ある時、ココナッツで作った「ココリンヌ」という商標のマーガリンのセールスマンとして大成功を収め、突然お金を持つようになったのだ。


母レジナは、敬虔(けいけん)なクリスチャンだったが、父は神を信じず教会には行かなかった。父は、ほとんど家にいなかった代わりに、たくさんの小遣いを息子たちに渡して甘やかした。その金を持ってマグリットは中学生の頃から娼婦の家に通っていたという。さらに少年時代には、神父のような仮装をして教会ごっこをしながら「彼は奇人になった」と呪文を唱えたり、道路で新聞に火を放ち「火事だ!」と叫び回ったり、他人の家の屋根の上を歩き回ったり、爆竹を人の家に投げ込んだり、近所の農家の鶏を盗んだりといった、信じられないようなイタズラ(超現実的すぎる悪行)を繰り返していた。
 
父は母が自殺する直前、息子3人を呼びつけ、母の前で十字架にツバを吐くように命令した。息子たちはそれに従った。直接の原因かどうかはわからないが、心の底から傷ついた母が川に身を投げてしまったのだと、後年マグリットが考えるようになっても不思議ではない。その後、息子たちは、下女と家庭教師に預けられることになった。
 
そして「母を殺してしまった」という大きなトラウマが、マグリットを画家にした。作品のほとんどは、彼の記憶がモチーフとなっている。記憶の断片と丁寧に描かれたリアリズムの技法が、まるで美しい文学のように互いに響きあい融合したのだ。


ベルギーの周辺は、古くから「奇想の画家」が多い。ルネサンス期のヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲル。象徴主義のフェルナン・クノップフ、ジェームズ・アンソール。
写実主義の伝統と空想を融合し、夢のような景色を視覚化する遺伝子が、マグリットの身体の中にも眠っていたのだろう。彼の作品は次第に評価され、アメリカでの人気も高まっていった。特に1960年代になると美術関係者以外の関心も集めるようになり、大きな美術館で回顧展が開催されるようになった。
 
大成功を収めた後も、暮らしは変えなかった。3LDKのアパートに妻と暮らし、まるでサラリーマンのように規則正しい生活を送っていた。絵を描く時も、スーツにネクタイという風貌だった。犬が大好きだったマグリットはポメラニアンを飼い、夜10時には決まったように就寝した。そして、黙々と傑作を描いた。
 
昼なのに夜。部屋いっぱいに広がったリンゴ。上半身と下半身が逆転した人魚。空色の巨大な鳥。闇の世界に光るお屋敷。海の上に飛ぶ巨大な石。
マグリットは、シュルレアリスムの巨匠と呼ばれることも多いが、本当は超現実的な作品を描いたわけではない。子どもの頃に見た悪夢を、写実的に写し取っただけなのだ。そして、絵画を描くことで「父と自分が、母を殺してしまった」という罪を一生かけて償っていたのだろう。

 
 
 

【参考文献】
森耕治『マグリット 光と闇に隠された素顔』(マール社)

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。