04 パフェは音楽であり、ライブである

 パフェが他のスイーツと違う点として、「持ち帰れない」ことが挙げられる。(※注1)

 

 溶けちゃうから。サクサク感が失われるから。
 このことを、よく考えてみよう。

 

 ケーキは、持ち帰ることができる。
 時間が経っても形が崩れないように作られているから。自分自身だけで自立し、時間と物理的な移動に耐えることができる。

 

 パフェは、時間が経ったら、台無し。
 でも、それでいい。できあがった刹那(せつな)の時間を()でるものだから。

 

 硬いものも、やわらかいものも、パフェグラスが支えることによって、共存できる。
 あるいは、グラス上に危うい均衡を保ちながら、目の前に現れる。

 

 パフェには(つか)()の自由がある。
 冷たいものにも温かいものにもなれる。
 サクサク、パリパリ、トゥルトゥルにも。
 それらすべてになれる。

 

 異なるものがあって、移り行きがある。
 全体が調和し、そして、過ぎ去ってしまう。
 だから、パフェは音楽である。ライブである。

 
 

「アシェットデセール」と呼ばれる、作りたてのデザートをその場で楽しめるお店が増えている。通常アシェットデセールは皿盛りのデザートを指すが、パフェを出すお店も多い。高さを出すことで、(つく)り手がより立体的な表現を追求できる。そして、上下に層を成すことで、作家のメッセージを込めやすくなる。

 

 ところで、パフェはいつ「完成」するだろうか。
 神楽坂(かぐらざか)にある「アトリエコータ」のカウンター席に座り、パティシエが目の前でパフェを組み上げている間、ふと考える。完成、そりゃあ、パフェが提供される形に仕上がった時だ、とふつう思う。しかし、もしパフェが音楽のようなものだとするならば、目の前のパフェはまだ「楽譜」でしかないのではないか? たとえば今、目の前に「和栗(わぐり)(くろ)烏龍茶(ウーロンちや)のパフェ」ができあがりつつあるが、私が「演奏」を始めない限り、それはまだ存在すらしないのではないか?(しかしながら、早く演奏を始めないと楽譜が台無しになっていく。なんて悩ましい!)

 

 パティシエが空のワイングラスに黒烏龍茶のジュレを入れ、そしてレモン風味のアイス、黒烏龍茶のグラニテをのせていく。コーヒーアイスを積み、サクサクのタルト生地の上から和栗のモンブランクリームを絞り、ピスタチオをぱらり。仕上げに飴細工(あめざいく)をふわりと浮かべる。そうやって(逆向きの)楽譜が紡がれるのを鑑賞した後で、今度は逆方向へと私が演奏する。飴細工を少し口に含み、残りを一旦皿の上にのせてから、ピスタチオと和栗の風味を楽しんでいく。
 演奏しながら、その瞬間瞬間が完成である、と思う。コーヒー、レモン、烏龍茶の音色が快く響いていく。そして、演奏が完了した時、それはもう過ぎ去っている。再び空となったグラスを目の前に、それがパフェなのではないか、と考える。

 

 さて、どんな楽曲も、演奏者の腕によって良くも悪くもなるということがある。一方で、すばらしい楽曲は、演奏者がよほどおかしなことをしない限り、よい音楽であるだろう。パフェにも、そういうところがある。
 深く考えずに気楽に食べてもおいしい。けれども、もっとおいしい食べ方はないかと考えると、悩みは尽きない(いい悩み。うれしい悲鳴みたいなものだ)。

 

 お店によっては、こうしたらいいとやんわりアドバイスをしてくれるところもある。フルーツソースはグラスの真ん中くらいまできたらかけて――。ここからはブランマンジェと青りんごのジュレを混ぜながら――。キャラメルアイスとシュトロイゼル(※注2)を一緒に食べるとおいしい――。それならそれに従うのがいい。
 でも、たいていはこちらの自由だ。自分好みに進めていって構わない。良くも悪くも、自分にしか聞こえない演奏なんだし。


※注1:コンビニやデパ地下にはテイクアウトのできるパフェもあるが、立体的にはしづらく、時間経過に耐えられる素材で作るため、ケーキやプリンのような形体になることが多い。
※注2:小麦粉、バター、砂糖などをポロポロのそぼろ状にした食感素材。

▲飴細工の奏で方、悩む。アトリエコータの「和栗と黒烏龍茶のパフェ」(カウンターでの写真はなかなかキレイに撮りづらい)

毎月第2・4木曜日更新

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斧屋(おのや)

 パフェ評論家、ライター。東京大学文学部卒業。
 パフェの魅力を多くの人に伝えるために、雑誌やラジオ、トークイベント、時々テレビなどで活動中。
 著書に『東京パフェ学』(文化出版局)、『パフェ本』(小学館)がある。