16 自作自演の罪悪感

 インターネットでパフェの画像を(あさ)っていると、そこに「罪悪感」という言葉がついてくるのをよく目にする。
「こんな時間にパフェを食べちゃって、ちょっと罪悪感」、というように。
 ……個人的には、あまり好きな言い回しではない。
「罪悪感」は「悪いことをした」という感情のことだが、パフェについてまわるそれのほとんどは、食べている自分自身に対してのものだ。つまり、太ってしまうとか、不健康・不摂生なことの原因として、パフェを悪と見なしているわけである。
 ……パフェは悪者じゃないぞ、と怒りたい気持ちがある。

 

 いや待て。落ち着いて考えてみよう。この「罪悪感」の秘密について、ちゃんと考えてみよう。私はパフェで「罪悪感」を感じることはほとんどない(※注1)が、ここには改めて見直すべきパフェの魅力があるのかもしれない。
 なぜ、人は罪悪感を感じてまでパフェを食べるのか、食べざるを得ないのか。悪いと思うなら、食べなければいいではないか。……違うか。悪いと思いながら食べる、ということに魅力があるのではないか、もしかしたら。

 

「罪悪感」のプロセスを以下のように想像してみる。
「罪悪感」が誰かの心に発生した当初は、自らの身体に対しての「わるい食べもの」(※注2)としてパフェが現前している。しかし、パフェの魅力には(あらが)えず、食べてしまう。その結果、「罪悪感を感じながらも食べてしまう」ということが快感となる。そもそも、この「罪悪感」は自分自身に対してのものであって、他人を誰も傷つけないという意味においては、罪ならぬ罪である。そして自らの実存的な危機をもたらすような罪でもなく、心に傷は残らない。だから次第に、「罪悪感」と口にすること自体が免罪符のようになって、それはパフェの中に簡単に溶けてなくなってしまう。

 

 怖くて絶叫するジェットコースターにわざわざ乗ってしまうように、人の感じる「快」は複雑である。より正確に言えば、プラスとマイナスの振り幅を人は求めているのであって、絶対にプラスに戻ってこられると信じられるマイナスを、人は楽しむ。
 つまり、パフェの「罪悪感」は楽しく食べるための「言い訳」であり、甘い世界にオチていくための盛大な「前フリ」なのではないか。

 

 ふと思い出したが、自分も「罪悪感」に似たものを感じることがあった。それは、あまりにもすばらしいパフェと出会った時である。こんなにも美しい、尊いものを、「こんな私(分不相応な私)」が食べてしまっていいものだろうか、という意識である。ここでは、パフェが善きもの、完全なるものとして我々の前に現れる。「罪悪感」というよりも、身が引き締まる思いといった感じで、このパフェにふさわしい人間であらねばならないという気持ちになる。これもまた自作自演のようではあるが、パフェの前でひざまずいてから、パフェの世界へ昇天するという振り幅による快楽がある。

 

 こんなにも、パフェは都合よく善にも悪にもなる。
 愛すべきニクい存在である。

 

 ……さて、買っておいたパフェでも食べようか。
 ファミリーマートの「窯出(かまだ)しプリンのパフェ」。上に丸ごと1個プリンがのり、続いてホイップクリーム、スポンジ生地、プリンムース、カラメルゼリー、底にプリンが入ったプリンづくしのパフェである。385キロカロリー。深夜に「罪悪感」を感じるにはぴったりのパフェではないか(わざわざ「罪悪感」を求める気満々である)。
 ……あれ、そんなに甘すぎなくて、ちょうどいい。「罪悪感」なんかちっとも感じない。
 この原稿にうまくオチをつけるために、むりやりパフェに罪悪感を感じようとしても、無理でした。そういえば、私はパフェを食べていないことに「罪悪感」を感じる人間だったのだ。


※注1:強く「罪悪感」を感じるのは、やむを得ずパフェを残してしまった時である。ここ10年で2400本ほどのパフェを食べたが、そのうち残してしまったパフェは4~5本くらいである(あまりにも多かったときと、あまりにも口に合わなかったときだ)。
※注2:小説家・千早茜さんの連載名を拝借。毎月第2・第4水曜日に更新中。

▲ファミリーマート「窯出しプリンのパフェ」
パフェは悪くない。善悪は人が作るもの。

毎月第2・4木曜日更新

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斧屋(おのや)

 パフェ評論家、ライター。東京大学文学部卒業。
 パフェの魅力を多くの人に伝えるために、雑誌やラジオ、トークイベント、時々テレビなどで活動中。
 著書に『東京パフェ学』(文化出版局)、『パフェ本』(小学館)がある。