11 アマゾン

「自由研究何にしようかな」
 初めて日本で夏休みの宿題をやる長女から何度もそう助けを求められていたけれど耳を貸す余裕がなく、本人から妙案が出ないならば何かアマゾンで自由研究キットでも買ってやろうと思っていた矢先に、夫が「昆虫観察に連れて行く」と言い始めた。自分の担当している批評家が定期的に昆虫観察をしており、子供たちと同行しても良いか打診したのだという。
 持って帰って飼うのではなく、その場で観察、記録をするだけだという夫の言葉にほっとしたが、数日後、やっぱり自由研究だし一匹くらい家に連れて帰りたいと長女が言い出し、虫かごを買っておいてくれと言われ、渋々アマゾンで購入した。この世にアマゾンが存在していなかったら、自分は一体どんな生活を送っていただろう。最近ポチるたびにそんな素朴な疑問が湧き上がる。アマゾンがなかった頃の生活、食べログがなかった頃の店選び、クックパッドがなかった頃の料理、サブスクがなかった頃の選曲、LINEやスナチャがなかった頃の人間関係、銀行アプリがなかった頃の銀行振り込み、忘却や変化を恐れても仕方ないが、「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」というタイトルを背表紙でよく見ていたけれどあれは一体誰の家の本だっただろうという疑問が最近定期的に湧き上がる。
「何採るの? カブトムシ?」
「いや、カブトムシはまずいないって言ってたよ。採るとしたらカナブンじゃないかな」
 夫の言葉にふうんと頷き、虫の存在を極力感知しないように生きてきた私はカナブンを画像検索して絶望的な気持ちになった。とにかく私は何一つ手出さないし出せないからねと長女に言うと、明るく弾けるような「うん」という返事が返ってきた。

 

 昆虫採集当日、五時半に起こしてくれと言われていた私は執筆の挙句五時にソファで寝落ちていた。ほぼ三日家から出ず、動画さえ見ず、お風呂にも入らず、飢えた子供たちにご飯を作ることと執筆と推敲だけを続けていた。夏休みに入ってから、遠方から遊びに来る友達と飲みに行ったり、イレギュラーなライブやお祭りに行ったり、夏休みなのにとそこはかとなく不満そうな子供達を満足させるのに最も消費エネルギーが少ないカラオケや映画に連れて行ったり、また夏バテと持ち前の体力のなさのせいで毎日定期的に仕事をしようという計画が完遂できずにいる内、最後の最後で自宅に缶詰状態になっていた。飯炊きと小説という別ベクトルに伸びている仕事を短いスパンで行き来するたび、自分の中の繊細さを象徴したガラス細工のようなものを一つ一つ蹴り壊していくイメージが頭に浮かぶ。
 虫除けスプレーしてという言葉ではっと飛び起き、寝ぼけたまま子供達にスプレーをすると、彼らは夫と予定通りの時間に出発したようだった。

 

 グラグラする。目を開けた瞬間そう思った。きゃっきゃとはしゃぐ子供達の声がして、「あ、ママ! ただいま!」という一言が耳に届いたけれどとても起き上がることはできず、何かむにゃむにゃ言った後また目を閉じた。
 再び目を開けてスマホを確認すると朝九時で、ダイニングテーブルに昨晩夫が買ってきた飼育ケースが置かれているのがコンタクトを外した目でも確認できた。
「あ、ママ起きた? ダンゴムシがいたんだよ!」
 タオルケットにくるまったまま、なぜかダンゴムシが好きな次女の言葉を「あとでね」と流してスマホでメールの受信ボックスを検索する。何の催促も苦情も来ていないことにほっとして、LINEとスナチャを確認する。間に合いそうにない締め切りが迫ってくると毎回目覚めるたびひどい胸騒ぎがして生きた心地がしなくなる。締め切りを超過してしまうと、目覚めるたび自分には傑作なんて書けるはずがないし常にじめじめしたマイナス思考の公害クズで大した信念も確固とした理想もないのにまぐれで小説家になってしまった滑稽なピエロで醜態を晒して笑われて迫害排除されるのが仕事だというのにどうしてそれすらきちんとできないのだろうという思いに支配される。
「いっぱいカブトムシがいたんだよ!」
「カブトムシ?」
 振り返って確認すると、長女は嬉しそうに「カブトムシ七匹連れて帰ったんだよ! 男が五匹で女が二匹」と言う。
「……カナブンを採ってくるって聞いてたんだけど」
「カナブンも六匹いるよ。あとダンゴムシが一匹」
 唖然としていると夫がリビングにやって来て、普段はカブトムシはほとんどいないらしいんだけど今日はなぜかすごくたくさん居たんだと説明になっていない説明をする。
「どうして全部連れて帰ったの? 一番大きな一匹だけとかにすれば良かったのに」
「カブトムシなんて普通そこらへんじゃ見つけられないんだよ。外でこんなに捕まえられること普通はあり得ないし。それにもっと捕まえられたけど加減して持って帰ったんだよ」
 喜んで観察している子供達に捨ててきなさいとも言えず、私は呆然としたままケースを眺め、鳥肌が立ってきた、と子供達に腕を見せ笑われる。ここに住み始めて一年、この家がかつてなく遠いものに感じられた。
「この家が他者のいる家になってしまった」
 私の嘆きはカブトムシに浮き足立っている三人の耳には届かず、「あ、ゼリー食べてる!」という喜びの声を背中に受けながらパソコンを持って寝室に籠もった。自分にとって未知の生き物、管轄外の生き物が一つ屋根の下に存在しているという事件を、どう受け止めたら良いのか分からなかった。例えば空き巣に入られたら、こんな感じの気分なのかもしれない。
 カブトムシの飼育について一通り調べると、オス同士を一緒のケースで飼うと喧嘩をして怪我をしやすく長生きしないと書いてあったため、オス一匹メス一匹のつがいで飼う、もしそれ以上ということならもう一つケースを買ってオスメス二匹ずつ、計四匹を残して他は公園に放そうと夫に提案したが、俺が子供の頃は何匹も同じケースで飼っていた、野生にいても樹液を吸いながら喧嘩したり蹴落としたりしている、どうせカブトムシは夏は越さないで死ぬ、という私からすると昭和的マッチョイズムを感じざるを得ない三点を理由に断固拒否された。そういえば、私の兄も幼い頃昆虫採集をしていた。飼っているカマキリの餌としてコオロギやバッタを捕まえてきて食べさせることに喜びを感じている風の兄に、何というか「だめだこりゃ」感を抱いたのを覚えている。
 でも考えてみれば、付き合ってきた全ての男に必ず一度は「だめだこりゃ」感を抱いてきた。男というのはそういうものなのか、それとも私がそういう男とばかり付き合ってきたということなのだろうか。でもきっと、付き合ってきた男たちからすれば、お前に言われたくないの一言に尽きるだろう。
 カブトムシを見ながら、不意に時代の移り変わりを実感する。どんどん人間的とされるものが女性化されていき、それをはみ出すものが排除されていっている。今や犬や猫は名誉人間となり人間と同等の権利を求める声が増え、あらゆる動物に対する虐待への批判が高まり、捕鯨に関しても賛否両論ある。どこまでが自分たちの仲間であるかという基準で命の重さを決めて良いのか、最終的にゴキブリなどの害虫にも安全な生活を営む権利を与えるべきなのか、感情を優先すべきなのか、生態系を重視するべきなのか、生態系という観点から考えた時、地球上の人間は適正な数と言えるのか、権利を与えるという思考に陥っている一生物である人間の驕り、そこに立ちはだかる自然淘汰という言葉、最も遠い存在であった「虫」という存在と共存することになった今、私は改めて自分の存在価値を考える。公害ピエロの私と、私に潰される蚊やゴキジェットで殺されるゴキブリとを分ける線なんていうものは存在するのだろうか。
 深夜二時、夫も子供達も寝静まり一人リビングで仕事をしていると、テレビの脇に置かれたケースの中からバタバタと忙しない音が聞こえ、見るとオス同士が喧嘩していた。買ったばかりのケースはカブトムシの世界を綺麗に映し出す。オスはオスと顔を合わせれば角でバッタンバッタン倒しまくり、メスを見ればすぐに乗っかって交尾を試みる。
 こんな機会もないからと観察していたが、メスが逃げ惑い続けて交尾は完遂しなかった。餌を食い、オスと見れば喧嘩をして、メスと見れば交尾を求め続ける。あまりにせわしなく、見ているだけで気疲れする。不意に泣きわめく長女を泣きながら抱っこして寝かしつけようと必死になっていた頃の記憶が頭に蘇り始めたことに気づき、慌ててパソコンの前に戻るとイヤホンを耳に挿して仕事を再開した。

 

「やっぱりケースを分けた方がいいと思うんだけど。昨日オスたちがずっと喧嘩してたし、メスに乗っかって追い回してたよ」
 仕事から帰宅した夫に開口一番そう提案すると、彼はヒステリーな女を宥めるような口調で「そんなの自然界にいたって同じだよ」と言う。
「でも逃げ場がないんだから最低限の配慮をするべきじゃない?」
「まあ考えとくよ」
 夫は分けて飼育することに乗り気ではないようだった。なんだか自分が掃除当番をサボる悪ガキを注意する学級委員になったような気がしてうんざりする。
「食べて喧嘩してメスを追いかけ回してるカブトムシを見てると、生きることの泥臭さを改めて考えさせられるね」
「カブトムシのメスも乗っかってくるオスたちを見て思ってるよ。なんでこいつらこんなに馬鹿なんだろうって」
 夫の言葉に力なく笑う。カブトムシの交尾について調べてみると、カブトムシのメスは体の準備ができていなかったり、すでに他のオスとの交尾を済ませていると、新しいオスとの交尾を拒むことが多いと書かれていた。こういう人間と通じる部分を知るとどことなくほっとするが、当然人間にもカブトムシにも個体差があるもので、そういう傾向がある、ということでしかない。オスたちだって発情してばかりのように見えるが、一度もメスの匂いに惹かれず交尾をしないまま死んでいくオスだっているだろうし、他のオスと交尾を済ませていても新しいオスとの交尾を続けるメスもいるのだろう。そんな、傾向でほっとする自分が何だか怖かったし、愚かに思えた。ハチ公の話に象徴されるように、人は人間的とされる生き物の行動に反射的に共感、感動してしまう。ハチ公は別に飼い主を待っていたのではなかったかもしれないし、人間的とされること以上に高尚な別の原理がそこにはあるのかもしれないのに。
 メスに逃げられてばかりのオスを見ていたら成功例が気になって「カブトムシ 交尾」で動画検索をすると、締め切りの明けた私は深夜のリビングで二時間以上もカブトムシの交尾を眺めていた。カチャカチャいう硬そうな音以外は意外なまでに予想通りで、人間のそれをスロー再生しているものとそんなに変わらないように見えた。

 

 片道四時間かかる遠い地での三日通しのフェスに踊り狂って帰宅すると、カブトムシがいなくなっていた。三人で元の場所に返してきたのだと夫が説明する。自由研究も終わったし、九月も近くなったからそろそろ死んでしまうだろうし、だったら最後は自由にさせてやろうという夫に長女は同意したが、次女は強固に反対していたという。そこまで飼育を楽しんでいる風には見えなかったが、長女の真似をして飼育日記は長々と書いていた。初めて生き物を飼うということ自体がそれなりに刺激的なことだったのかもしれない。
 大泣きして最後まで反対していた次女をどうやって窘めたのか聞くと、にんじんの文房具セットを買ってやったと夫は言う。
「なにそれ」
「なんかユーチューバーが紹介してたんだって」
 カブトムシとお別れしてすごく泣いたんだ、と悲しげに話していた次女は、翌日アマゾンからにんじんの文房具セットが届くと、長女とユーチューバー風に開封して二人できゃっきゃと分け合って満足そうだった。
 そんな二人を見ながら、一夏の思い出、という言葉が思い浮かぶ。この夏の思い出がいつかこの先の辛い時自分の力になることもあれば、その思い出に無力感を抱かされることもあるかもしれない。記憶や人との関係、脆弱な自負と糸のような希望に縋って、自身の乖離を嘆きながら生き長らえてきた自分の弱さとしぶとさを思い、放したカブトムシやカナブンにも子供達にも己の人生をあらゆるものに縋りながら生き抜いて欲しいと願う。
 夜になると鈴虫の鳴き声が聞こえるようになったことに気づいたアマゾン依存のピエロは、他者のいなくなったリビングで、ヘラクレスオオカブトの交尾の様子を何度も頭に反芻させながら、次はどんな醜態を晒して人々から排除されてやろうかと考えつつ、食べられる当てのなくなったカブトムシゼリーを片付け始めた。

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著者 金原ひとみプロフィール

1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『クラウドガール』等がある。現在『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」を連載中。