23 名前
ひとの名前を覚えるのが苦手です。
タナカとかナカタとかヤマナカとかタカヤマとかタケヤマとかハタケヤマとかハタヤマとかハマタとかヤマハタとか。難しくないでしょうか? というか、ぜんぶ同じじゃないでしょうか? 同じです。ニュアンスはぜんぶ同じです。
しかし人名って、覚えるのがふつう、みたいな文化です、世界って。ひとの名前を間違えるなんて失礼、みたいな。これは個人的には納得がいかないです。
名前を覚えられないって、失礼でしょうか? 失礼ですかね? 礼ってそんなものでしょうか? 礼って、もっとふわっとした、精神的な領域に位置するものだと思うのです。もっとこう、心の持ちようみたいな。愛みたいな。ふわっとした。
しかし人の名前を覚えよ、というのは完全に脳の、記憶力の問題です。他の礼儀作法はべつに記憶力に拠らないのになぜ名前だけはクイズ形式で試されるのか。勘弁してほしいです。
と、これまではひとり勝手にぐちぐち文句を言ってるだけで済んだのですけれど、最近、そのせいでひとに迷惑をかけることが増えてしまいました。
小説のお仕事をさせていただくにあたり、登場人物に名前をつけます。名前のつけ方はひとによっていろいろあると思うのですけれど、私の場合はなんとなくぱっと頭に浮かんだ名をそのまま採用することが多いです。その結果、自分でつけた名前をよく忘れます。
こいつなんて名前だったっけ……と前の方にさかのぼって確認することができればまだよいのですけれど、自分が忘れていることにすら気づけないこともよくあります。確か木村だったな、と間違えたまま進んでしまうのです。その結果、最初に登場したときは後藤だった人物が後半で急に木村になります。
ありがたいことに、書いた文章は世に出る前に、「校正」という文章のプロフェッショナルの方が、誤字脱字やおかしな日本語や時系列の矛盾がないかなど、さまざまな不備をチェックしてくださいます。しかしそんな文章のプロに、「この木村と後藤は同一人物でしょうか?」などというしょうもない指摘をさせてしまうのは心苦しいです。
逆にうっかり、すでに田中という登場人物がいることを忘れてしまって、田中が複数人出てくるという事態になってしまったこともあります。別に田中の入れ替わりトリックとかいうわけでもなく、ふと思いついた名前が田中ばかりだったというだけの意味のない田中被りです。ミステリでもなんでもないシンプルなストーリーで、主人公のバイト先の上司とお客さんの苗字が被ってしまいました。現実ではよくありそうなことですが、そんなところでリアリティを出してもややこしいだけです。当然、「この田中は前述の田中とは別人ですか? あえてですか? あるいは同一人物でしょうか?」というすごく戸惑った感じの指摘をいただきました。
「すみません別人です。この田中は木村に変更します」みたいな返答をしながら、やっぱり名前はちゃんと覚えないと迷惑だな、と思い始めました。
どうして名前を覚えるのが苦手なのかというと、思い当たるふしがあります。
子供の頃から友達が少なかったので、しっかりとした実体験を伴って記憶できている名前のストックが少ないのではないかな、と。
例えば幼少期の友人に「佐々木」という子がいました。なので私は佐々木さんなら簡単に覚えられます。たぶん。「佐々木」という響きがきちんと固有名詞としての印象を伴って脳の中に保存されているからです。
でもそれが田中となると駄目です。「田中」という友人はいなかったので、田中という響きになんの印象も思い入れもないのです。「田中」は脳の中で「tanaka」とばらばらになり霧散して、再び呼び起こそうとしたときには「木村!」とかぜんぜん被りも引っかかりもしない名前になっています。
そしてこれはこのエッセイの十二回目で「ひとの顔が覚えられない」という話をさせていただいたときにも書いたのですけれど、私は子供の頃、『アストロノーカ』という、宇宙で宇宙野菜を育てるゲームに鬼のようにハマっていて、ひとの名前より、宇宙野菜の名前を覚えるのに脳の容量を割いていました。
あれから二十年以上がたった今でも、タマネギボムやコスモニンジンやトマトニアン、妖精ピーマンや冥王マツタケといった名前は完全に覚えています。その代償として、私はタナカやキムラやサトウやゴトウを覚える領域を失ってしまったのではないかと思うのです。
自分がなにもかも覚えられないのをすべて『アストロノーカ』のせいにするのはどうかと思いますが、原因の数パーセントくらいは宇宙野菜にあるのではないかと一方的に睨んでいます。

