07 不安

 トイレに入って用を足しているとき、ここは本当にトイレなのだろうか? と不安になる。トイレだと思っているのは自分だけで、今自分はトイレにいるという夢を見ているだけで、本当は街中とか、電車の中とか、決して許されない状況下で用を足してしまっているのではないか?

 

 という悩みを打ち明けられたことがあるのですが、私はまったく考えたこともない悩みだったので驚きました。別にそのひとは実際にトイレだと思ったところがトイレではなかったという経験があるわけでもなくて、まったくの無からふとそんな不安を生み出したとのことなので、ひとの想像力ってすごいなと思いました。ひとってそんなふうに無からでも無限に不安を生み出し続けるので安息のときは永遠に訪れないなと思いました。

 

 トイレの不安はないのですけれど、私には全裸の不安があります。道を歩いているとき急に、あれ、今日ちゃんと服着てたかな? と不安になります。
 今ひとり暮らしをしているので、家を出るまで誰にも会いません。もし仮に私が服を着ないで外出していたとしても、それを指摘してくれるひとがいないのです。私が服を着ているかどうかはすべて私の認知能力にかかっています。自分ひとりの認知能力なんてあまり信用できません。服なんて無意識に着ているつもりで着ていないかも。そういうときはきちんと立ち止まって、足先から着衣を目視で点検してよしすべて着ている、と毎回不安を解消しています。

 

 本当に服を着ていなかった、という経験はまだないのですが、自分を信用できなくなった一因として、うっかりハンガーを背負ったまま外出していたことがあります。上着をかけていたハンガーをそのまま背中に仕込んだ状態で出社してしまいました。朝、職場について上着を脱いだら背中からハンガーが出てきました。たぶん首のところからハンガーのくるっとした部分が飛び出した状態で電車とかにも乗っていたのだと思います。すごく動揺して、どうしても自分ひとりで抱えきれなくて、たまたま近くにいた別にぜんぜん話したこともなかった他部署の女の子に「今背中からハンガーが出てきました」と打ち明けました。その子が「えーすごい! すごいですね!」と褒めてくれたので救われました。

 

 ハンガーを背負っていて気づかないなら全裸で外に出て気づかないこともあり得る気がして、そこから全裸不安が悪化したようにも思います。トイレ不安のひとにこの全裸不安を伝えたところ、ちょっとそれはわからないと言われてしまったのですが、これらは自分の認知が信用できないという根の部分は同じ不安な気がします。

 

 認知が信用できない(つな)がりで一緒にしていいかわからないのですが、「世界五分前仮説」というものがあります。イギリスの哲学者バートランド・ラッセル氏が提唱した説です。
 世界はもしかしたら五分前にこのまま(、、、、)の状態で始まったのかもしれない。物質も記憶もなにもかもこのまま(、、、、)の状態で。生物も無生物も五分前までの各々のヒストリーを既にもった状態で発生した。そうではないと証明することは不可能である、的な説です。

 

 最初この説を知ったときはなるほどなあ確かにな、と思いました。でも一か所、気になる点がありました。なぜラッセル氏は世界の発生を「五分前」に仮定したのでしょう。「世界五秒前仮説」であったとしても論旨は揺るがないはずです。なんなら「世界今仮説」でもいいのに。

 

 なにかきちんとした理由があるのかもしれません。なんとなく五分前くらいに設定した方が感覚としてわかりやすいというだけかもしれません。
 でも私は、そこには「いやでもいくらなんでもせいぜい五分くらいは経ってるでしょ?」という甘えがあるんじゃないかと疑っています。世界が過去を持たず急発生した可能性は決して否定できないけど五分くらいはさすがにね? というような。

 

 と言いますのも、先ほど私は「全裸不安」があると書きましたが、「全裸」という表現は正確ではありませんでした。本当は、服を着ていなかったとしてもせいぜい下着くらいははいてると思っています。自分の認知能力に不安を抱きながらも、「パンツくらいはいてる」という慢心があるのです。

 

「トイレ不安」を打ち明けてくれたその子も、もし仮に用を足していたらマズいなと想像してしまう場所として、街中や駅などを挙げていました。もし本当にそうだったとしてもぎりぎりで生き延びられる可能性のある場所のように思います。すごくぎりぎりですけど。もっとアウトな、社会的に即死となるような場所だってあるのではないかと思うのです。重役の集まった職場の会議室とか、なんらかの生中継中のカメラの前とか。

 

 自分の認知を疑いだしたらキリがない上になにを信じるかの判断も自分の認知を頼らなければならないわけなのでどうあがいても不安は尽きなくて生きるのって大変です。でもいくらなんでもさすがにぎりぎりこのラインくらいは達成してるでしょ? みたいな根拠のない甘えを抱ける脳のおかげで今日も不安に押しつぶされることなく生きていられているのかなひとは、と思いました。

毎月第1・3木曜日更新

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著者
渡辺優プロフィール

渡辺優(わたなべ・ゆう)
1987年宮城県生まれ。宮城学院女子大学卒業。2015年『ラメルノエリキサ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に『自由なサメと人間たちの夢』『地下にうごめく星』などがある。


イラスト
内山ユニコプロフィール

内山ユニコ(うちやま・ゆにこ)
北海道北見市出身、東京都在住。20代の終わりより作品制作を始める。花田菜々子著『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』のイラストなどが話題に。
オフィシャルサイト:http://www.vesicapisis.com