06 胃腸の敵

 この世で最もストレスフルな場所は歯医者なんじゃないかと、歯医者へ行く道すがら毎度のように考える。
 でも、今日は大丈夫だ。三ヶ月に一度の定期健診だから。歯科衛生士さんのチェックで終わる。虫歯が見つからなければ痛いことはされない。
 そう思って、診察台に寝転んで数分、もうストレスを感じている。
 腹にエアコンの風があたっている……ちなみに今は真夏だ。膝かけはしてくれているが、お願いだからちょっとずりあげて腹かけにして欲しい。しかし、口をあけっぱなしなので喋れない。歯科衛生士さんが歯の表面を磨いたり、フッ素を塗ったりする間にどんどん腹が冷えていく。いまにもぐるるっときそうだ。緊張でじわじわと冷や汗がにじみだす。
 
『わるい食べもの』単行本の感想を見ていると、「胃腸が強靭(きようじん)で羨ましい」という意見が少なくない。私がたくさん食べているせいでそう思われるのだろう。でも、「溶けない氷」でも書いたように私は腹を下しやすい。かき氷といった冷たいものだけではない、汗をかけば気化熱でぎょっとするくらい体表が冷たくなりすぐさま腹がぐるるっとなる。なぜか雨の日も腹を下す。しょっちゅう「夏、下痢」「低気圧、下痢」と検索をかけている。エゴサーチするより下痢について調べている方が格段に多い。
 
 特に、梅雨(つゆ)から夏の湿度は胃腸の大敵で、ほんとうにずっと調子が悪い。蒸し暑い京都でも、腹を冷やさないようにしている。へそだしファッションなんて絶対にしない。むしろ、キャミソールはパンツに㏌している。友人たちに「それはないわ。どんなお洒落(しやれ)しても台無しやん」と死ぬほど笑われようが、下着と腹の間に風を通したくない。
 高校生のときはセーラー服だったので、腹がすうすうするのが心から(つら)かった。男子がシャツをズボンに㏌しているのが羨ましく、ちょっと不良っぽい男子がシャツをだしたりしているのを見ては「冷えを知らない生物なのだな」と距離を感じていた。そこまで気をつかっても、かき氷は一発でアウトだし、ラーメンも下す。そして、病院や歯医者でも下す。
 
 小さい頃はストレスがいっぱいで、しょっちゅう胃痛を起こしていた。まず学校が嫌、集団行動が嫌、給食が嫌、制服が嫌。他の子が平気なことが私には耐えがたく、身勝手だとか()(まま)だとか言われて、ますます辛くなっていく悪循環。毎週のように腹が痛くなり、夕飯時によくテーブルの下で丸くなっていた。寝転がって見るさかさまの家の中はいつもよりまぶしく、食事をとる家族の声が遠く聞こえた。この先、自分はちゃんと生きていけるのだろうか、といつも茫漠(ぼうばく)とした不安の中にいた。
 
 ストレスに弱いって、なんだか格好悪いと思っていた。いまも歯医者くらいで腹を下す自分は恥ずかしい。なので、歯医者から帰るとよくラーメンを食べる。コンビニやスーパーで「(しん)ラーメン」「とんがらし麺」といった辛そうな名前のカップ麺を物色する。どうせどんなラーメンでも腹を下すのだ、本当に辛いかどうかより辛そうでスープが赤いことが大事だ。油でてらてらと輝いていたらなお良い。ラー油を足しながら、汗をかきかき真っ赤なラーメンをすする。カップ麺のお手軽さは身体に悪いことをしているという意識を強めてくれる。汗が冷えてくると、期待通りに腹はぐるるっとなり、歯医者ストレスを激辛ストレスで上塗りする。精神的な打撃にやられるより、物理的な打撃に負ける方が、同じ腹下しでもダメージが少ない気がする。
 
 仕事机のそばには季節を問わず「あずきのチカラ」が置いてある。中に乾燥あずきがつまったミニ座布団みたいなもので、電子レンジで温めて血流の悪くなったところにのせる。じんわりぬくまる。あずきのもっさりした匂いに落ち着く。遊びにきた人は「あずきのチカラ」を見ると、「やっぱりパソコン仕事だから肩が凝るんだね」と言うが、実は腹用だ。締切が迫っているとき、トラブルがあったとき、送った原稿の返事がこないとき、じわりと脇汗がにじみ、腹がぐるるっとなる。慌てて温めて、腹にのせる。「あずきのチカラ」では(こら)えられそうもなかったらスナック菓子の暴食に走る。
 人見知りなので外にでればストレスはたっぷりだ。会食の後はたいてい腹を下すので、満腹でも帰宅してから飲み食いしてしまう。メンタルが弱いことが恥ずかしく、つい暴食による物理的な打撃を与えてしまう。それはなぜなのか。
 
 きっと、ものすごく小心なのだ。小心だから、小心であることを認められない。胃弱なら体質だからと諦めもつくけれど、メンタルの弱さには自分で自分にがっかりする。自分が嫌になると生活が楽しくないし、見えないメンタルというものの鍛え方もわからない。
 でも、がっかりするということは、自分は強いと思っているということなのかもしれない。それはちょっと良くないと最近は思う。
 
 限界を教えてくれるのが身体だ。痛いというサインを無視したら壊れてしまう。ほんとうは強いも弱いもない。自分に合っているか、いないか、だけのことだ。自分への過信や期待が胃腸の最大の敵なのかもしれない。
 学校をはじめとするあらゆる集団生活が駄目で絶望していたが、まあなんとか大人になり生きてこられた。私にしては上出来だろう。ぐるるっと(うな)る腹を抱えながら「はい、怖くない怖くない」と笑えるようになるのが四十代の目標だ。

第2・4水曜日更新

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。


北澤平祐プロフィール

北澤平祐(きたざわ・へいすけ)
イラストレーター。東京都在住。アメリカに16年間在住後、帰国しイラストレーターとしての活動を開始。
多数の書籍装画や、花王、東京ソラマチ、渋谷ヒカリエなどのキャンペーンビジュアル、ファミリーレストランCOCO'Sのメニューイラストや、洋菓子のフランセ、キャラメルゴーストハウス、KENZO Parfumsの商品パッケージ等、国内外の幅広い分野でイラストを提供。
オフィシャルサイトwww.hypehopewonderland.com