03 苦い薬

 物心ついた頃から、嫌なことからは逃げればいいと思っていた。逃げられると信じていた。
 だから、とにかく逃げた。保育園の昼寝の時間は眠くなければ脱走をし、学校で嫌なことがあれば無断で下校した。友人と遊んでいても空気が悪くなるとぷいと帰った。授業が面白くなければ注意されても違うことをしていた。そのまま育ったら大変なことになっていた気がする。
 
 小学一年の一学期の終わり、家族でアフリカに引っ越すことになった。動物好きの私は喜んだが、アフリカ大陸に渡るにはたくさんの予防接種を受けなければいけなかった。注射は痛い。注射は嫌いだ。変な液体を入れられるなんて気持ち悪い。もちろん私は叫んで拒否し、病院中を逃げまわった。
 追いかけてきた父は私を壁際まで追いつめると言った。「選びなさい」と。「注射を受けて家族でアフリカに行くか、注射はせずにおじいちゃんおばあちゃん()で暮らすか」。小さな私は考えて、注射を選んだ。自分で選んだことなので泣かずに受けた。とばっちりを食ったのは姉の大騒ぎの一部始終を眺めていた妹で、注射への恐怖が伝染して失神しかけた。申し訳ないことをしたと思っている。
 
 一度、注射をクリアすれば終わりかと思っていたが、読みが甘かった。アフリカで暮らしはじめてからもマラリア予防のために薬を飲まなくてはいけなかったのだ。一週間に一回、曜日は忘れてしまったが、いつも夕食の後だった。薬は真っ白で大粒だった。どう呑み込んでも、大きすぎて喉にひっかかる。ものすごく苦い。ちょっとでも舌に触れると、「ん゛ー!」と鼻から絶叫がもれ、身がよじれる。身体のすべてがこの苦味を拒絶している。苦味を感知してしまえば、その後なにを食べてもなかなか消えない。私は後にも先にもあんなに苦いものを知らない。呑みそこねると薬の表面が濡れて溶けかかり、ますます苦味をまきちらす。当時のアフリカには、オブラートなんていう気の利いたものはなかった。大きすぎる薬を母は割ってくれたが、割ると増えて何回も飲まなくてはいけなくなるので損だと感じた。増えて楽しいのはポケットの中のビスケットだけだ。
 
 毎週、その曜日が苦痛だった。夕飯を食べる手が遅くなる。最初は「がんばれ」と応援してくれていた両親もだんだんと「早く飲んじゃいなさい」といつまでも食卓にいる私を冷たい目で見るようになった。妹はするっと飲めていた。素直だからだと両親は妹を褒めた。私だって素直だ。この物質は嫌だと身体が素直に拒否している。ならば逃げよう、と思った。
 
「薬を飲まなければマラリアになる」と父は言った。そんなの本当かどうかわからない。現地の人たちは飲んでいないのに元気に生きている。そう判断した私は、飲んだふりをして薬をそっと隠し持ち、トイレに捨てて流した。両親が見ているときはご飯やおかずを舌にのせ、その上に薬を放り込み、口腔内の食べもので包むようにして席をたち、トイレで吐きだした。口にものをふくんだまま「ごちそうさまでした!」と元気よく発声する練習をした。食卓を離れるときもまっすぐにトイレに行くのではなく、窓の外の犬に手をふったり、居間のソファに転がったりし、ワンクッション置いてから思いだしたようにトイレに行くようにした。演技は完璧で、一度も見破られることはなく、私は薬を捨て続けた。
 
 ある日、目を覚ますと、天井がまわっていた。起きあがろうとしても身体に力が入らない。耳ざわりな音がずっと響いている。自分の呼吸だと気づいても止められない。ぽろぽろと涙がこぼれた。それもすぐに乾いてしまいそうなほど身体が熱かった。体温計を見た母の顔が険しくなる。四十度近い熱だったらしい。すぐさま近所に住む日本人医師が呼ばれた。医師は眼鏡をかけた優しい人で、『となりのトトロ』のサツキとメイのお父さんに似ていて私はたいそう(なつ)いていた。でも、そのときは違う人に見えた。マラリアにかかると高熱がでることは知っていたので、ぐにゃぐにゃとゆがむ視界で「死ぬの?」と()いた。「私はマラリアで死ぬの?」と。返事は記憶にない。
 
 点滴に繋がれ、苦い薬をたくさん呑まされ、それらを嫌と拒む気力も体力もない状態で熱にうなされ、食べては吐いた。数日経って、ようやくジュースを甘いと感じられるようになった頃、医師が私を見て目を細めた。いつもの眼鏡のおじさんに戻った、と寝そべったまま思った。にへらと笑い返す私を見つめたまま、医師は「茜ちゃん、薬、飲んでなかったでしょう」と言った。さあっと血の気がひいた。
 医師は怒らなかった。けれど、見抜いていた。いつも穏やかな人に迷惑をかけ、幻滅されたのだと、恥ずかしくて情けなくて泣きそうになった。それは薬よりもずっとずっと苦かった。
 
 それから、薬を捨てるのはやめた。「ん゛ー!」と涙目になりながら呑み込んだ。反省したわけではない。逃げられないものもある、と絶望したわけではなかった。逃げれば後でもっとしんどいことになる、と学んだからだ。
 ときどき、あの苦さを思いだそうとする。お酒の味を覚えた私は苦味に鈍感になったのだろうか。あの強烈な苦さをうまく再現することはできない。でも、人からの幻滅や自分の不甲斐(ふがい)なさ、情けなさの苦味はまだまだある。それらからは逃げることができない。泣き叫んでも仕方がない、(こら)えるしかない苦さを、私はあのとき初めて知ったのだと思う。

第2・4水曜日更新

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。


北澤平祐プロフィール

北澤平祐(きたざわ・へいすけ)
イラストレーター。東京都在住。アメリカに16年間在住後、帰国しイラストレーターとしての活動を開始。
多数の書籍装画や、花王、東京ソラマチ、渋谷ヒカリエなどのキャンペーンビジュアル、ファミリーレストランCOCO'Sのメニューイラストや、洋菓子のフランセ、キャラメルゴーストハウス、KENZO Parfumsの商品パッケージ等、国内外の幅広い分野でイラストを提供。
オフィシャルサイトwww.hypehopewonderland.com