10 すすれない

 まだ寒い四月だった。友人と大阪で遊んでいると急に小腹がすいてきて、知人に「おいしいよ」と勧められたうどん屋に入った。外からなんとなく疑わしいと思っていた予想は当たった。うどん屋は立ち食いだった。一瞬、躊躇(ちゆうちよ)したが、その辺りで他に知っている店はない。「小腹がすいた」なんて格好つけたが、実は空腹で身体が冷えはじめていた。
 
 そこで私はまた格好つけた。立ち食い初体験であることを隠したのだ。頼んだ釜玉バターうどんをカウンターへ取りにいき、立ったままパキッと箸を割る。友人はカウンターで天麩羅やおにぎりを物色している。薬味も追加した。えっ、そんなことできるの?! とあっという間に素人であることが露呈する。いやいや、私はシンプルに食べるのだ、と己のうどんに向き合っていたら友人が言った。「ちょっと、どんぶりは持たないんだよ」片手でどんぶりを持ったまま固まる。まわりを見ると、確かにみんな細長いテーブルに置いたどんぶりに顔を寄せている。でも……でも……と思う。座っているときより明らかに食べものと口までの距離が遠い。どんぶりを持たねば、立ち食いではなく(かが)み食いになってしまう。結局、最後までどんぶりを持ったまま食べた。店をでると、友人はまた言った。「あむあむ食べていたね」ああ……と頭を抱えたくなった。
 
 私はすすれない。
 ラーメンに興味がなく、あまり外食で麺類を選択することがなかったので、友人たちに気づかれていないが、すすれない。アフリカとはいえ海外育ちだからすする習慣がなかったと言えば、それ以上は追及されることはないが、私以外の家族はちゃんとそばもうどんも素麺(そうめん)もずずずとすすれる。
 殿こと夫に「私、うどんやそばをあむあむ食べている?」と()くと、「うん、食べてるね。江戸っ子に怒鳴られそうな食べ方してる」と即答された。
 
 これは修業をせねばなるまいな、と思い、東京生まれ東京育ちの担当T嬢にそば体験をしたいと言った。できれば立ち食いの。「いいですよ、私よくひっかけてますから」と二つ返事だった。大衆そばの本まで教えてくれた。「ひっかける」の意味がよくわからなかったが、お勧めに連れていってもらうことにした。
 
 本当のところ、すするのがちょっと怖い。ストローも好きではなく、飲みものについてきても外してしまう。すする力を信じられない気持ちがある。自分の握力を把握できていない赤子が蒸しパンや()で野菜を握り潰すように、すすり経験の薄い自分はすすり力を把握できていない気がする。食べものを握り潰しても死にはしないが、すすりどころを間違えると気管に入る。気管支に食べかすが入ってしまったら肺炎になる。病院に勤めているときに誤嚥性(ごえんせい)肺炎になった人をたくさん見たので恐ろしい。すすりあまって、むせて、鼻から麺類がでるなんてことになったら死にたいくらい恥ずかしい。
 
 そんなわけで当日、ドキドキしながら東京は京橋でT嬢と待ち合わせた。オフィス街へと向かう。T嬢が連れていってくれたのは「そばよし」というお店で、立ち食いではないとのことだった。混むからと昼前を狙ったが、もうサラリーマンの行列ができていた。ほとんどが首から社員証を下げて手ぶらだ。店の外にメニューがあったがあまりに多くて決められない。そのうちに列はどんどん進んでいく。回転が早い。もたもたしていると、近くの男性が券売機で食券を買うのだと教えてくれる。それを厨房(ちゆうぼう)に渡して、席を確保しようとするも、人の行き来が多くてわたわたする。また親切な人が席を移動してくれてT嬢と並んで座る。二人できている人は我々くらいだ。浮いている。と、番号が呼ばれた。慌ててそばを取りにいく。忙しい。
 
 私は「冷やしむじなそば」を選んだ。葱を入れるか聞かれる。紅生姜がのせ放題だったので、山盛り入れる。細かく刻んだ揚げと天かすの両方が入っているから「むじな」なのだそうだ。そうT嬢に言われても、京都の「たぬき」は短冊切りの油揚げにあんかけなので混乱する。それに、揚げや天かすより桜海老が目立っている。細切りのきゅうりもあって冷やし中華みたいだ。渋く「かけそば」とかにしておけば良かったか、と思いながら、混ぜて口に入れた。「んっ」声がでる。もうひとくち、ふたくち。「わ、すっごいおいしい!」素揚げされた桜海老がさくさく、きゅうりがしゃきしゃき、揚げは甘く麺に絡み、鰹出汁(かつおだし)のつゆが浸み込んだ天かすが口の中でじゅわっと溶ける。おいしいを連呼すると、「冷やし天玉そば」を食べていたT嬢は「良かったです!」と目を輝かせた。「おいしい」を言い交わすと熱い連帯感が生まれる気がする。しかも、安い。二人で千円を超えていない。テンションがあがり、はしごをすることになる。
 
 二店目は「よもだそば」、立ち食いであった。昼を過ぎていたのでそんなに混んでなく、じっくりとメニューを見られた。こちらはもっとメニューが多かった。券売機で目がチカチカする。「ここは揚げものが多いんですよ」とT嬢が言う。確かに、ニラ天玉そばや春菊天そば、ゲソ天そばやコロッケそばなんてものもある。私は「岩下の新生姜天そば」を、T嬢は「ごぼう天そば」にした。だいぶ慣れてきたなと思いながら、どんぶりに顔を近づけると、壁が近い。額が触れそうだ。テーブルの幅が狭すぎる。仕方なく、どんぶりを持って醤油色のつゆを口にふくむ。甘い。喉の奥までくる濃い甘さ。関西のつゆとはまったく違う。けれど、天麩羅に合う。甘いつゆに浸かった衣がなんとも(うま)い。黙々と食べ、今度はそば湯もポットから注いだ。「そばよし」では、焦っていて飲み損ねたのだ。粉かつお食べ放題の「おかかごはん」があることにも出るときに気づいた。おかかごはんは好物だ。絶対にリベンジしなくてはいけない。
 
「立ち食いそば、いいでしょう」と鼻の頭をテカらせたT嬢がドヤ顔をした。自分も存分にテカってるんだろうなと思いながら(うなず)くと、「ちょっと小腹がすいたときとか、立食パーティーの前とかに、さっとひっかけるといいですよ」と言った。それから、「千早さん、なんでどんぶり持って食べてたんですか? 一人だけ妙に姿勢良かったですよ」と指摘された。そこではじめて、すすり体験にきたことを思いだした。そばに夢中になってすすることを忘れていた。
 
 東京滞在中は朝スイーツをすると決めている。スイーツの前に喫茶店とかでトーストを食べる気にもならないし、いつも腹をぐうぐう鳴らして菓子店に並んでいたのだが、最近は朝そばをひっかけてから行くようになった。十時台の立ち食いそば屋は静かで、ずぞぞぞとそばをすする音だけが響く。「そばよし」では絶対に「おかかごはん」をつけている。相変わらず、食べているときにどんぶりを持ってしまうし、やっぱりあむあむしている。
 江戸っ子の世界でそばをすするのが格好良いとされているのは、誤嚥を恐れない姿勢が潔しとされているせいなのかもしれない。度胸試しみたいな感じで。とすると、老いて誤嚥のリスクが高くなったときに挑戦するほうが格好良いはずだ。老人になる頃までにすすれるようになればいいのではないだろうか。三十年後くらいの粋を目指そう。

第2・4水曜日更新

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。


北澤平祐プロフィール

北澤平祐(きたざわ・へいすけ)
イラストレーター。東京都在住。アメリカに16年間在住後、帰国しイラストレーターとしての活動を開始。
多数の書籍装画や、花王、東京ソラマチ、渋谷ヒカリエなどのキャンペーンビジュアル、ファミリーレストランCOCO'Sのメニューイラストや、洋菓子のフランセ、キャラメルゴーストハウス、KENZO Parfumsの商品パッケージ等、国内外の幅広い分野でイラストを提供。
オフィシャルサイトwww.hypehopewonderland.com