17 春の昼飯

 春は出会いと別れの季節だという。よく聞くし、つい自分でも口にしたり書いたりしてしまう。
 でも、ちょっと考えてみて欲しい。それって社会が勝手に決めた出会いと別れじゃないの。卒業式とか入学式とか新社会人とか新生活とか、三月に終えて四月に新しい環境をスタートさせることを、春が人間に強要しているわけではない。だいたい新年度って言葉がややこしい。新年は正月じゃないの。また新しくなるの。
 
 小学校のほとんどを過ごしたアメリカンスクールの新学期は九月だった。けれど、帰国したら四月だと言われた。おかげで、なんだよ大人が勝手に決めてるんだな、と反発心が芽生えてしまった。
 アメリカンスクールは教科ごとの飛び級も可能だったし落第もあったので、個々で歩みが違い、あまり強固なクラス意識はなかったように思う。しかし、日本は違った。みんなで新学期をはじめて、みんなで卒業しようという、無言の団結感がただよっていた。クラスごとに空気みたいなものがあって、そこに馴染まなければいけない。ようやく慣れた頃にまた春がやってきて、ゲーム盤をひっくり返すように新しい環境にさせられる。小中高と、新学期にともなうクラス替えは嫌なものだった。
 
 特に、小学校のときの給食の時間が嫌だった。同じクラスになったというだけで、机をくっつけて一緒に食事をしなくてはいけない。ただでさえ知らない人との食事は疲れるのに、まともに口もきいたことのない男子が咀嚼(そしやく)する姿なんて見たくない。相手もそう思っていることは知っている。だから、なるべく目を合わせずやりすごそうとするのに、男子は机を乱暴にぶつけてきたり、パンや麺を袋の中で潰したり、牛乳を飲めないことをからかってきたりする。なんとも生物として相容(あいい)れない。そんな存在の前でものを食べるなんていう無防備なことをしなくてはいけないなんて。ああ、飯の時間くらい自由にさせて欲しい……とぐったりした。
 
 中学や高校は少しだけましになり、クラスの中で仲の良い子と弁当を食べられた。しかし、それもクラス内の微妙な人間関係が反映されて、なんとなく薄気味悪いグループ分けができる。なぜ飯のたびに女子同士の力関係や思惑を読まねばならないのか。めんどうくさい。誰かを選ぶことも、誰かを選ばないこともわずらわしい。飯の時間は食べることに集中したい。そして、早く食べて、一人で寝たり本を読んだり自由に過ごしたかった。学校では、治外法権みたいな静かでフリーな場所は図書室しかなく、けれどそこで食事することは禁じられていた。図書室に避難するために急いで食べる弁当は喉につかえるようで、おいしく感じられなかった。
 
 中学、高校と私には友人と呼べる子は一人しかいなかった。私が転校した先の中学校にその子はいて、よく理由はわからないが女子たちから無視されていた。可愛い顔をした子だった。よく笑い、私の偏屈さも「うけるー」と笑ってくれた。いつもその子といた。けれど、やはり一人でいいという気持ちは腹の底に常にあって、その子が学校を休んだり、彼氏ができて一緒に帰れなくなったりしても、さびしいとは思わなかったし、他の友人を作らなくてはと焦ることもなかった。
 
 同じ高校へ進むことができたが、クラスは別れてしまった。私はこのまま友人としても離れていくんだろうなと思った。転校の多かった私は人との別れに妙に達観したところのある子だった。
 新学期のよそよそしい教室に昼食の時間がやってきた。「さあどうする?」「最初が肝心だよね」みたいな表情で互いを探り合う女子たちの向こうに、廊下を歩いてくる彼女の姿が見えた。あれ、と思う間もなく、彼女はなんでもないような顔をして私の教室に入ってきて、私の机に自分のお弁当箱を置いた。ぎゅうぎゅうと私の尻を押して一緒に座り、お弁当箱をあけて、いつものように嫌いな野菜を押しつけてくる。「自分のクラスで食べなくていいの?」と訊くと、「いいんじゃない」と笑った。
 
 あのとき、私は確かに嬉しかった。彼女と昼ごはんを食べられることが。なにも変わっていないことが。その後も彼女は私の教室に通い続け、他の子から「自分の教室で食べなよ」と言われても無視していた。学校にはなぜか、違う教室に入ってはいけない、というような言語化されていないルールがあって、他のクラスの子に用事があるときはみんなドアのところに立って近くの生徒に呼んでもらったりしていた。でも、彼女は誰の許可も得ず、休み時間であればすいすいと私のいる教室に入ってきていた。
 
 別に新学期だからといって、クラスが替わったからといって、自分の生活を変える必要はないのだ。食べたい人と食べればいいし、休み時間は好きなように過ごしたらいい。誰かが勝手に決めた区切りや無言のルールに無理に従うことはない。
 あのとき、自分はずっと嫌だ嫌だと思いながらも従ってきたんだと気づいた。飯の時間くらい自由にさせて欲しい、なんて、なにを「お願い」してしまっているのだ。顔も見えない相手にお願いしたって事態は変わるわけがない。自由にしたいなら、自由にしたら良かったのだ。
 
 そんなこんなで高校時代はわりと自由に過ごした。増長しすぎて休み時間に菓子を頬張ったり、早退して外でお弁当を食べたり、学校を抜けだして肉まんや大福を買いにいったりして先生に怒られた。教室以外に場所があると思うと、気持ちはすごく軽くなる。それはきっと社会人でも同じかもしれない。
 前に会社のトイレで昼食をとる人がいるという記事を読んだことがある。一人で食事をする、いわゆる「ぼっち飯」姿を見られたくないのでは、と書かれていた。それもあるのかもしれないけれど、会社の中での自由な空間がトイレしかないのではないかとも思う。トイレで飯を食うのが大好き! なのであればまったく構わないけれど、トイレしか行き場がないのであればちょっと苦しい。公園でもいい、いっそ一駅電車にのって会社を離れるのでもいい。ふっと違う景色が見られる場所に行くのもいいのではないか。休み時間まで自分が属する場所にいなきゃいけないわけではない。
 
 離れてみれば、自分が縛られていたルールなんて場所によって違うとわかる。桜舞う春はただの春になる。昼飯は違う味になる。別れも出会いも、結局は自分が作ることなのだ。人が勝手に決めた区切りにふりまわされなくていい。なんだか、らしくないエールみたいになったので、以上!

第2・4水曜日更新

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。


北澤平祐プロフィール

北澤平祐(きたざわ・へいすけ)
イラストレーター。東京都在住。アメリカに16年間在住後、帰国しイラストレーターとしての活動を開始。
多数の書籍装画や、花王、東京ソラマチ、渋谷ヒカリエなどのキャンペーンビジュアル、ファミリーレストランCOCO'Sのメニューイラストや、洋菓子のフランセ、キャラメルゴーストハウス、KENZO Parfumsの商品パッケージ等、国内外の幅広い分野でイラストを提供。
オフィシャルサイトwww.hypehopewonderland.com