19 歯がでる

 (いた)めものをしていた。セロリと牛肉で。牛肉は私の好きな肩ロース、赤身が多いのでかたくなる前にさっと火を通したい。ナンプラーをちゃっとまわしかけ、火を切る直前にレモンを搾って、皿に盛ったら黒胡椒(くろこしよう)をたっぷりと()いて――
 と、イメージしていた。しかし、ナンプラーの蓋が開かない。片手でプライパンを振りながら、もう一方の手の親指でパックマンのように開くはずの蓋をぎゅううううっと押しあげる。開かない。またか、と思う。タイ産のナンプラーの瓶は液体の切れが悪く、蓋のまわりに付着したナンプラーが結晶化してしょっちゅう蓋がガチガチにかたまってしまう。あー肉に火が入りすぎる! 指が痛い! 爪が割れる! 
 次の瞬間、ナンプラーの瓶に(かじ)りついていた。下の犬歯が蓋のでっぱりをとらえ、的確に、かつ素早くこじ開ける。さっとプライパンに投入。予定通りの流れで料理は完成した。
 しかし、ナンプラーのプラスチックの蓋にはしっかりとした歯型が。
 
 つい、歯がでる。切羽詰まったり、カッとなると、手よりも歯がでる。菓子の袋は歯でひき裂くし、買った服をすぐに着たいときはプラスチックのタグを歯でねじ切る。小さい頃は友人に()みついたことがある。親戚でビール瓶の蓋を歯で開ける人がいたので、顎が強い家系なのだろう。できる気がするが、あいにく私はビールを飲まない。
 握力より、顎の力のほうが数段強いし、指先より歯や舌の感覚のほうが鋭敏な気さえする。爪なんていう脆弱(ぜいじやく)なものとは比べものにならない。例をあげるなら、アポロチョコをピンクと黒の部分に分けるのは手では絶対にできないが、歯では容易(たやす)くできてしまう。歯に絶対の信頼をおいている。
 しかし、そのせいで我が家の瓶やチューブにはあちこち私の歯型がついている。アポロチョコもピンクと黒に分けられるが、もれなく唾液がついてしまう。
 
 ここまで書いて、ふと手が止まった。そのまま数日経過してしまった。
 その間、なにがあったかというと、新型コロナウイルスの影響で東京都知事が週末の外出自粛要請をして、私の四月の東京での仕事や打ち合わせがすべてなくなった。ちょうど新刊がでるタイミングで書店訪問や取材などに合わせて打ち合わせや会食の予定が入っていたのだ。
 そして、四月になった今日、東京での常宿にしているホテルから電話があり、今月の営業を見合わせると告げられた。五月から再開する予定ではあるが、状況によってはそれも変わるかもしれないと言う。感染者がでたわけではなく自粛である旨を焦ったような口調でつけ加えていた。
 
 マスク着用、手洗い、うがいが推奨されている中で、歯を使ってものをこじ開けるエッセイはどうなのか。いや、手洗い等は推奨どころではない、今や厳守と言ってもいいくらいだ。日に日に感染者は増え、誰がキャリアかも、自分が人にうつす可能性もないとは言えない状況で、唾液のエッセイなんて不衛生の極みだし、濃厚接触どころじゃない。どう考えても笑えない。
 そういう状況になったのだと、東京出張がすべて白紙になってようやく私は気づいたのだ。疫病の脅威にさらされているのは、もちろん東京だけではない。世界規模で感染がひろがっているし、私の住む京都も安全なんかではない。私は以前からひきこもりだが、一緒に住んでいる殿こと夫は外で働き、不特定多数の人と会っている。
 
 二月の末はここまでではなかったと思う。ジムに通いはじめたり、北陸に旅にでたりしていた。歯でものをこじあけるエッセイだって迷わず発表できただろう。新型コロナウイルスのニュースは見ていたが、毎日欠かさずチェックするほどではなかった。さらっと書いた「濃厚接触」なんていう言葉も周知のものではなかった気がする。
 けれど、一ヶ月で変わった。寝て、食べて、仕事をするいつもの日常の中に、ひたひたと不安や脅威が侵食してきて、予定なんてものがたたなくなってしまった。同じ時代に生き、リアルタイムで読んでくれている人々の日常もきっと前とは同じではないはずだ。
 
 それでも人はものを食べるし、記録魔の私は変わっていく日々のことを日記やノートに記録している。物語だって書いている。ただ『わるい食べもの』はエッセイだ。私が感じたことを書く媒体でありながら、「好きに食べる」という自由について提案してきたつもりだった。
 でも、今、私の言葉でなにを書けばいいのか。「今」というものに直面して頭と身体がかたまってしまった。
 
 経過したことなら書ける。書くことで消化もできる。けれど、今この世界で起きていることを私自身が日々整理できていないし、ひるんでいる。この先どうなるかもわからない。自粛が要請されている中で、好きに食べ歩くことを人に勧めることもできない。反面、大好きな飲食店が経営難に陥っていくのがとても心配だ。かといって、いままでと変わりない日々の食事をつらつら書くのも白々しい。自分が書きたいものも、人々が『わるい食べもの』で読みたいであろうものも見えなくなってしまった。
 
 なので、正直に「今」の気持ちを書いてみた。今日も私は茶を()れたし、好きな洋菓子屋のクッキーを食べた。夕飯は(もら)いものの(たけのこ)を炒めるつもりだ。和の味つけは昨日したから、ちょっとエスニック風にしてみようかと思っている。
 ナンプラーの蓋はまたうまく開かないだろう。ためらいなく口に突っ込めるだろうか。筍が多すぎるからといって友人を夕食に呼べるだろうか。
「今」はっきりしているのは、こんなことを考えずに歯を思う存分に駆使して日常を送りたいということだけだ。そして、それを笑い話にしたい。

2020年4月1日

 

第2・4水曜日更新

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。


北澤平祐プロフィール

北澤平祐(きたざわ・へいすけ)
イラストレーター。東京都在住。アメリカに16年間在住後、帰国しイラストレーターとしての活動を開始。
多数の書籍装画や、花王、東京ソラマチ、渋谷ヒカリエなどのキャンペーンビジュアル、ファミリーレストランCOCO'Sのメニューイラストや、洋菓子のフランセ、キャラメルゴーストハウス、KENZO Parfumsの商品パッケージ等、国内外の幅広い分野でイラストを提供。
オフィシャルサイトwww.hypehopewonderland.com