04 奈落の屋上で、恥と挫折だらけの人生を思う

 最終候補は取り消しになった。おれの悪評は業界じゅうにとどろいているだろう。ここが底だな、と思っていたがその底はまだ上げ底だった。
 十二月になっても腰の痛みが治らず、机の前に座っていられなくなって、トイレに行くのにも()っていかなくちゃならなくなる。救急の窓口に行ってみるとMRIを撮られ、椎間板(ついかんばん)にひびが入ってますねと告げられる。座り仕事はできませんよと言われて自嘲(わら)うしかなかった。もともと体にガタはきていたが、無理をすれば歩くことも座ることもできなくなると宣告されておれはいよいよ絶望して、書斎に帰って明かりも()けずにそのまま何日か寝てすごした。いまやおれは、体までだめになってしまった。しばらくは警備の仕事も休んでいたが、年の瀬になって営業所から連絡があり、大晦日(おおみそか)のその日だけ給料三割増という条件につられて復帰するはめになった。
 解体前のビルでそんなに重労働にならないというので、病院でもらったコルセットを巻いて越谷(こしがや)に出かけていった。
 (ひる)すぎからべたついた雨が降っていた。この時期になると神社仏閣から警備依頼が押し寄せるので、営業所は人員のやりくりに大わらわなのだ。外壁がグリーンの(シート)に覆われた九階建の(ふる)い建物だった。警備室はコンクリが()きだしで、パイプで()った蛍光灯がみすぼらしく明滅している。おれはヒーターの前で腰をかばいながら、雨音の向こうから響いてくる除夜の鐘に耳を澄ました。
 ほどなくして、時計の針がてっぺんで合掌する。
 新しい年の幕開けだった。
 ユリはいまごろなにをしているかな。新年をあいつと迎えられたらよかったのに。これ以上、悪いことにならなきゃいいなと思うが、といって上昇の気配はどこにもない。今年もまたうらぶれた穴の底で、すこしでも息をしやすい場所を探して這いまわるのかと思うとげっそりさせられた。
 陰気な雨が降りつづけていた。天気予報を見ると、寒冷前線が南下して関東を覆っているという。コンクリの床は底冷えして、防寒用のアンダーシャツを着こんでいても寒い。おれは警備室で足踏みをして、巡回の時刻になると全身の骨が薄いガラスでできているようにそーっと建物の内部をまわった。その時点でおれはまだ、割れた窓の向こうからこちらを凝視する視線があることに気がついていなかった。
 そいつらは建物の周辺に散らばっていたらしい。見つけたぞとスマホで連絡をとりあったか、さもなくばおれに聞こえない獣の鳴き声で合図を送りあったかのどちらかだ。
 それは、狩りの合図だった。
 エレベーター前の踊り場に差しかかったところで、おれは襲われる。
 肩をいきなりバットで()たれた。腰の痛みをごまかそうと伸びをしてなければ、バットの先端は頭蓋骨をひしゃげさせていたかもしれない。暴漢は一人じゃなかった。わらわらと群がってくる。五、六人はいた。雨具のフードをかぶり、(おおかみ)(とら)(わし)雪豹(ゆきひよう)の被り物で顔を隠している。それぞれの得物(えもの)を、蹴りを見舞ってくる。暴行に酔うようなわめき声のなかに、おれはおぼえのある声音を聞き分けていた。
「あんた〝協定〟を破ったろ? ほんとに目障(めざわ)りなんだよ」
 森田ではなく二瓶だった。あの日の約束を守らなかったから私刑(リンチ)? エキセントリックな森田ならまだしも実は二瓶のほうが、木から落ちたスズメバチの巣のように踏んじゃいけないやつだったのか。野生の作家は群れるとか言っていたが、本当に群れで襲ってきた。どうやって今夜の勤務地を知ったのか、家からストーキングでもしてついてきたか――
「ちょっと待って、コルセット、コールセッッットォッ」
 コルセットを巻いてやっと動けているのに、暴行なんてされたらマジ死ぬ。催涙スプレーを携行していたので使ったが、マスクを(かぶ)った連中に大きな効果はない。駆けだして階段を上がったが、すでに二階でも野生動物たちが待ちかまえていた。あからさまにこの急襲をエンジョイしている。襟首や二の腕に(いばら)模様や鉤十字(かぎじゆうじ)刺青(タトウー)(のぞ)かせた者もいた。電話でもふれられていた、暇をもてあました半グレをとっちゃん坊やが雇ったのか、無職の若者は金で依頼されたら犯罪もこなす。連中はやさぐれて暴走もすればイオンで買い物もする埼玉の(トライブ)だった。
 通用口に出る廊下がふさがれていたので、腰の悲鳴に耐えながら上階に逃げた。最後の体力の数滴をふりしぼっておれは屋上に駆けこんだ。南京(なんきん)錠つきの鎖を解いて外に飛び出して、外側から鎖をかけようとしたが扉を閉めるぎりぎりで入ってこられ、完全に退路を断たれてしまった。
 だれかの指輪つきの(こぶし)がおれの左頬に溝を彫りこんだ。息が止まるほどに蹴られ、内臓や骨に響くような打撃を浴びた。遊びでも冗談でもない、こいつらは本気で私刑をやりとげるつもりだ。背中は耐えられる、だけど顔や腰はだめだ。鼻や口から血が出る。右目は()れあがって、唇は切れ、腰の痛みは脊柱(せきちゆう)の全面にひろがってアドレナリンでも抑えきれない。おれはあえなく気絶していた。
()っときゃそのうちくたばるだろ、他人(ひと)の夢を踏みにじるような(くず)野郎はずっと一人でそこにいろ。ハッピー・ニュー・イヤー」
 気がつくと仰向(あおむ)けに倒れていた。嘲笑(わら)いながら二瓶たちが去っていくのがわかった。連絡用のスマホも無線機もばきばきに破壊されていて、あげくに扉の内側から施錠されてしまっていた。マジかよ、置き去りか?
 真冬の、土砂降りの、元日の深夜だ。雨足は強まる一方で、雨よけになりそうな(ひさし)すらない。朝方までは周囲を通る人影も見当たりそうにない。もしかしたら正月の三が日でだれも通らないかもしれない。定期連絡がなければ営業所が人を寄越(よこ)すだろうが、屋上のおれに気づく見込みはありそうでない。普段の素行からして職場放棄でトンズラしたと思われるかもしれない。このまま()れねずみでいるだけでも肺炎になるか凍え死ぬ。市街のただなかで遭難したようなものだった。
 考えても無駄か、助かるイメージがまるで()いてこない。
 ただでさえ内臓出血とかしてそうだし。寒さや雨がなくても死にそうだし。
 屋上でへばりきって雨を浴びながら、おれは書けなかった小説のことを思った。
 世界終末小説のことを思った。未来に生まれるはずだった、(すご)い物語のことを思った。
 どうしておれは、こんなときにまで小説にこだわるんだろう。だれだって一度でも書けばわかるはずだ。書き手でいつづけることは苦しい。夢にすがることは万能の薬でも尊い美徳でもなんでもない。
 おれのこのざまを、たどりついた場所を見ればわかるよな? 
 ただ暗鬱(あんうつ)で、沼のように息苦しくて、屋上なのにまるで奈落(ならく)の底だ。
 ここにはだれもいない。ユリも生駒もいない。
 これまでに出会ってきた、連れも同業者もだれもいない。
 恥と挫折(ざせつ)だらけの人生だった。どこまでもくだらない酒と孤独にふやけた人生だった。おれはふいに恋しくてしかたなくなる。ユリや生駒が、ナスチカが、これまでに別れてきたすべての人々が恋しくて恋しくて、凍死する前に人恋しさが心臓の鼓動を止めそうだ。おれはそういう、おれの世界にもういないすべての人とまた会うために、たとえ小説や物語のなかでだけでも再会するために、それを生みたがってきたのかもしれない。たしかにそのために書いてきた。
 仰向けにのびたまま、おれは雨粒を降らせる暗雲の向こうに視線を凝らす。真っ暗な雲には隙間(すきま)もなかったが、そのどこかに高次の視線のようなものを感じなくもなかった。
 屋上に敷きつめられたタイル材が、あたかも原稿用紙のマス目のように思えてくる。はははっ、小説家だったら原稿用紙の上で死ねってことか。それともまだなにも書かれてない原稿用紙があるぞってことか――
 おれは、ゆっくりと体を起こした。
 ああ、そうだな。
 ずっとここにいてやるさ、おれはおれとして、御毛文雄として。
 だれにも見向きもされなくても、過去の所業がどこまでもつきまとってきても、それでもおれはずっとここにいる。賞金稼ぎでもプロの作家でもおなじだ。小説を書き上げるたったひとつの秘訣(ひけつ)は、書きあげるまでそこから離れないことだ。
 冷たい雨に打たれて、いつのまにか酒気も抜けていた。ああそうだとおれは思う。〝賞金稼ぎ〟でなにか書けないだろうか。ミステリかハードボイルドか、とにかく読者を腹の底からエンターテインさせられるものを――
 お。
 これはなんだ。千思万考していたおれは、なにかの端緒を(つか)んでいる。
 おお、これは小説の断片か。〝賞金稼ぎ〟が呼び水になったのか。
 おれの頭の上に、巨大なスフレのようにもくもくと想像の世界がひろがる。あたかも蠟燭(ろうそく)の火が消える間際に揺らめくように。満身創痍(そうい)の頭と体のなかにスイッチが押されたように、物語の一節が浮かんできた。

 

 生死を問わず(デツド・オア・アライブ)、というのは俺たちの流儀じゃない。そんなのはアメリカかぶれの賞金稼ぎたちのたわ言で、俺たちは生け捕りにしてこそ堂々と対価にありつける。だけど今度のターゲットの場合はそうも言っていられなかった。

 

 おお、タフだね。
 ごりごりのハードボイルドの感触。だけど悪いとは思わない。
 賞金稼ぎつながりの連想らしい。これはどういう方向性を有した物語なのか。舞台はどこで時代はいつなのか。どうして〝俺たち〟と複数人称なのか。流儀をまげてかからないとまずいほどの手強(てごわ)い標的ってことか、のっぴきならないな!
 たしかにそれは小説の胎動だった。そんなふうに最初の一節がまとまって降ってくることがあったか、たぶんない。紙やペンがないのがもどかしい。おれはその一節に意識を凝らし、湧いてきた疑問に自分で回答を用意して、即興のようなかたちでファースト・センテンスを展開させてみる。断片をふくらませ、イメージを発酵させ、細かな設定や人物造形を編みこんでいった。
 現代日本を、舞台にしたい。
 アメリカのような〝賞金稼ぎ〟の制度はこの国にない。
 逃亡犯や仮釈放者を追いかけて、身柄を拘束する探偵&傭兵(ようへい)はいない。
 だけどこの小説のなかには、いる。
 例えばこういうのはどうだろう。特別報奨金制度と裏の懸賞金を当てこんで、指名手配犯やカルトの逃亡者、保険金殺人やテロリストといったお尋ね者たちを調査、追跡、捕獲している連中がいる。それらを差配・管理する互助組織があって、専門の懸賞金収集係がたとえば事件被害の遺族、他にも複数の親族や有志に出資させるかたちで案件ごとに数十万から数百万のギャランティを用意している。
 ちょっと時代遅れか、(オス)っぽすぎるかね? 
 押しだしの強い野性味、気障(きざ)台詞(せりふ)。最後までそのノリを貫徹できるのか。
 だけどその分野に要るのは、美学だ。おれは美学のあるやつらの小説を書きたい。
 あ、わかった。〝俺たち〟と複数形である理由がわかった。主人公はボニー&クライド風の男女の賞金稼ぎなんだ。夫婦? カップル? 相棒以上恋人未満? 男のほうもタフで腕っこきだが、女のほうがよりイカれているほうがいい。
 追跡型のストーリーになりそうだ。富豪の娘が殺される。容疑のかかった三人の男たちが警察の追跡を逃れている。互助組織のデータベースに公開手配(オープン・コントラクト)が出される。一人でも億、三人とも捕らえれば倍々ゲーム。そうなるとまずいぞ。
 他の賞金稼ぎも動きだすぞ。海千山千の凄腕(すごうで)たちが集まっちゃうぞ。愛犬家の一匹狼、暴力団の下部組織、ハイエナ系の元公安刑事。そして独自の美学を尊ぶ男女ペアの賞金稼ぎ。一攫千金(いつかくせんきん)を狙ってめまぐるしい追跡と争奪戦をくりかえす〝俺たち〟は、娘の死にまつわる隠された真相にたどりつく――
 おれは書きたい。その小説を書きたい。とことんハードボイルドに(いん)すると決めてからは、制御のリミッターを外してとめどなく物語を横溢(おういつ)させる。
 ストーリーが石油なら、おれはアラブの油田になる。想像力がほとばしりすぎて眩暈(めまい)がやまない。大降りの雨もおれの火事を消せない。結局、そのまま元日の朝になって、日が暮れて、夜になるころに救出されるまでおれは頭のなかの原稿用紙のマス目を文章で埋めつづけた。思ったとおり営業所は正月ボケと人員不足でまるまる二十四時間もおれの苦境に気づかなかったが、顔面を変形させて雨で溶けていきそうなところを発見してくれた同僚にもおれは「紙とペンをくれ」と言ったらしい。
 入院した病院のベッドでも書きつづけた。寝る間際まで書きに書いて、夢のなかであらたな着想に溺れ、起床した瞬間には物語に没頭している。おれは小説のなかにしかいない。小説のなかでしか呼吸ができない。腰を痛めずに寝ながら書く体勢のオーソリティになって、横書きでレポート用紙に書いたものを、こっそり看護師に買ってきてもらった原稿用紙に手書きで浄書していく。過不足なくリライトと推敲(すいこう)を重ねて、ひさしぶりに骨のある小説の誕生を感じていた。
 原稿用紙の数枚がはらり、と床に落ちる。
 それは、こんな小説だった。

 
 
 
(05につづく)
 

Animated GIF/MOTOCROSS SAITO

毎週金曜日更新

更新情報はTwitterでお知らせしています。

著者
真藤順丈プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう)
1977年東京都生まれ。2008年『地図男』でダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で電撃小説大賞銀賞、『RANK』でポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。2018年刊行の『宝島』で山田風太郎賞と直木賞を受賞。他の著書に『バイブルDX』『畦と銃』『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』などがある。