10 『キスカム』

 十二月、(しゆうと)の病院に持っていく着替えを畳んでいたところで、
「ごめんください」
 玄関から声がした。若い女の人が立っていた。雛人形(ひなにんぎよう)のように小作りだけど端整な容姿の娘さん。ワンピースの上に青いウールのコートを着ていて、二連のパールのネックレスが細い首筋に映えている。落ち着いた身なりだったけど、なんとなく着つけない大人の女性の衣裳(いしよう)を着ているお嬢さんのような印象があった。それはつまり、彼女なりに本妻と対決するうえでの武装だったのね。
 彼女はお(なか)が大きかった。二十八週目らしかった。
「奥さまとお話がしたくて」
 響一の子だ、とその娘は言った。
 私はくらっときたし、人なみに夫の裏切りへの痛憤も込みあげた。
 ここにきてそんな修羅場が舞いこむなんて、そんなのってあり?
 だけど一方では、来るべきものが来たんだとも思った。ずっと妻との冷戦がつづいていて、()まった鬱憤を晴らそうとしてうっかり愛人を身籠らせてしまう。響一は自分の子とは認めず、途方に暮れた愛人が直談判(じかだんぱん)にやってくる。それは私だけの身に降りかかったことではない、うんざりするほど〝現実〟そのものな夫婦の泥沼だった。
 椿(つばき)さんはまだ二十五歳だという。むしろ彼女に申し訳ないとすら思った。彼女にも本妻とキャットファイトを演じるつもりはないようで、しおらしく目を伏せて、響一さんからは奥さんとは家庭内離婚のような状態だと聞いていた、とはいえ既婚者と知りながら付き合っていた自分にも非があるので、シングルマザーになってもしかたないと思っているとずいぶん殊勝なことを言ってくれて、
「だけど妊娠してることを伝えても認めてくれなくて、養育費も払わないって。私はさきざきが不安すぎて、奥さまに謝罪したうえで三人でお話しできないかって。もしかしたら奥さまには離婚するつもりがあるんじゃないかって。そうだとしたらあたしは、できれば響一さんと一緒になりたいです。すくなくとも響一さんも、認知するかしないかの気持ちを変えてくれるんじゃないかと思うし……」
 生まれてくる子のことを第一に考えたくて、と椿さんは言った。なんてちゃんとした()だろうか。もっとこの(ひと)にも怒ったほうがいいのかとも思ったけど、どうしてもそういう心情は湧いてこなかった。妻としては、愛人よりも夫とのやりとりのほうがずっときつそうだった。有責配偶者はあちらだ。これでもうここにいなくてもいい。自分の〝亡命〟の欲求は棚に上げて、離婚を見すえた調停も進めやすくなると楽観視ばかりもできなかった。私の考えはとめどなく暴走を始めていた。
「あの人、私のことをどんなふうに話してましたか」
「はあ、それって例えば、どういうことですか」
「あいつはもうおれとセックスしたがらねえ、とか言ってなかった?」
「えっと、それは……」
「いいんです、そのとおりだから」
「失礼ですけど多恵子さん、想像以上にさばさばしてますね」
「そうかな。さばさばついでにひとつお願いしてもいい?」
「なんですか」
「そのお腹、ちょっと見せてもらえないかしら」
「……え、それはちょっとごめんなさい」
「そこをなんとか」
「刺したりしませんか」
「刺しません」
 本妻のマウンティングのように思われたくなかったので、家に上がってもらって、しばらく世間話をしたあとでもう一度お願いした。立ち上がってワンピースの裾をまくったとき、椿さんのほうもすこしホッとしたような表情を浮かべた。
 なりゆきとはいえ奇妙な光景ではあった。彼女はきれいな球体となったお腹をさわらせてくれた。おへその下から大きな豆のすじのような線が浮いていた。このなかに響一の子がいるんだ――その事実は、太陽の黒点のように私の意識を焦がした。ふわふわと落ち着かない体が、自分から離れて部屋じゅうを勝手に飛びまわり、そのたびに(たこ)のようにたぐり寄せなくてはならなかった。
 私はどうしようと思った。さわらせてもらったものの、このあとどうやってこの場を収束させよう。これをどう捉えていいのか、よくわからない感情で顔の裏側が火照(ほて)った。怒りとも(かな)しみとも違う感情の乱高下で、自分の心の回転数を下げることができない。
 あのこと(・・・・)で私が拒んだから、この子は入るべくしてここに入った――なんてことを思っちゃうあたりは、やっぱりよこしまなマウンティングでしかないのかもしれない。言葉にするのは変だったので、ありがとう、と私はお腹の子とその母親に無言で感謝を伝えた。考えはどんどん狂気じみて曲がりくねる。私はこの子を宿すことを拒んで(・・・・・・・・・・・・・・)、そのかわりに小説を生みだすことにしたんじゃないかとすら思えて――
 そうして、去年の暮れから春先にかけてのことを思い出した。

 

 おれたちはまだ(わけ)えんだからさ、と響一が言ったのだ。
 悪くなかった夫婦関係は、息子が独立したことでいろいろと変わった。
 私がなにか新しいことをやろうとして、意識を外に向けて、落ち着きなくふらふらしているのが響一は不満そうだった。その当時から椿さんとは付き合っていた計算になるから「多恵子ひとすじ」というのはでまかせだったわけだけど、それでも響一のほうが夫婦の間にかつての情熱を取り戻そうと試行錯誤していたのは事実だった。
頑張(けつぱ)るってのは語弊があるな、おれはいまでも多恵子としてえんだから。だからなんつうか、減ってることに危機感があるわけ。四十六と四十二なんだから、世間の夫婦はまだみんなしてるさ。だってのにお()は、(はえ)ぐ終わらせてくんねかなみてえな(つら)するし」
 (はえ)ぐ終わってくんねかな、とはたしかによく思っていました。
 (はた)から聞いたら、私のほうが感じ悪いよね。
 だれかに話したことはなかったし、相談してもややもすれば惚気(のろけ)の変形だ。その齢でもお盛んなんていいことじゃないと言われかねない。だけど響一のセックスは長い、少なく見積もっても三時間はかかる。下手(へた)をすれば、四、五時間にも達しちゃう。
 長くない?
 他人(ひと)さまとは比べようもないけど、そもそもセックスの時間配分が男の側にゆだねられているのが私の不幸だった。齢のせいで遅くなっているのもあるけど、それよりも丁寧すぎて長い。ひとつひとつの行為を()ですぎて長い。結婚したばかりのころなら、その丁寧さは私にも(よろこ)びと充足感を与えてくれたけど、いつからか義務感が勝るようになった。もしも共働きだったら違ったのかも。明日もあるからと手早くショートコースで済ませてくれたのかも。響一もいつか「多恵子が主婦でえがった」と言っていたし。だけどもそれはそれで解せん。主婦だから体力がありあまっているという前提は解せん。橙也に手がかからなくなっても毎日の家事でへとへとになっていたのに、夜の営みまで加わってくると、翌朝に布団からわが身を引き剝がすのが、墓場からよみがえる死者なみの重労働に感じられてならなかった。
 若いころから一貫している。常識のレベルの(はる)か上に、響一という男はぷかぷかと素っ裸で浮かんでいる。一、子供はいずれ独り立ちする。二、ゆえに家族でもっとも大切なのは夫婦関係。三、夫婦の仲を円満に保つ秘訣(ひけつ)はセックス、という方程式を響一は大事にしていて、だけど気持ちはあっても、体の機能が追いつかないということはあって。
 透けた下着を着けてほしいとか、ラブホテルに行こうとか、演出をほどこしたがったりとか、わざわざアイライナーで泣きぼくろをつけさせたりとか。健全な機能を保つための協力要請をしてくるようになって、三十代まではそれなりに私も頑張った。息子を育てあげたんだからもうセックスなんて、遠い日のアルバムをたまに(めく)るみたいに、年に数度ぐらいのものでいいんじゃないかと思っていたけど、彼にとっては卓上カレンダーに目をやるほどの頻度で臨みたいものらしくて。妻に欲望を持ちつづけ、お盛んであらんとする姿勢はある意味で誠実だと思うから、私もそれなりに頑張った。
「おれは外で浮気したくねえのよ、家ん中で燃えていてえのよ」
 だけど私が気乗りしてなかったり、響一が望む〝したさ〟を表明できなかったり、眠気にあらがえずにうとうとしちゃったりすると、途端にへそを曲げてしまう。途中で投げだしてくれるときはまだよくて、たいていはベッドの上で鬼教官のように諭しはじめる。「いっぺん()ったら勃ちっぱなしって年齢ではねえんだからよ」「お()にさぼられちゃできるものもできねえ」「勃起を大切に!」ようするに行為のさなかに()えるのが夫の自尊心をいたく傷つけるようで、私はなんというか返す言葉が見つからず、裸のままで正座してうなだれ、響一は柔らかくなった自分の物を右手でこねながら――再起の兆しを逃したくない一心らしい――妻に猛省をうながす、というなかなかに滑稽かつ壮絶な修羅場がくりひろげられてきた。どうにか私のなかで果てると、態度がうってかわって「(わり)、ちょっと言いすぎた」「ちょっとおれも頭に血がのぼってたわ」と謝ってきて、私はこっちこそごめんねと返しながらも、これって爆発期とハネムーン期をくりかえすという家庭内暴力と何が違うんだろうと思いつづけていた。
 そして今年の春――帰宅した響一はわざわざ取り寄せたという資料を私の前に置いて、自分のほうは多少の運動量は落ちていたけど、全体の濃度や量は若いころとも遜色なかったと()くしたてた。「前にちょっと話したでねえか、お()の年齢もぎりぎりの線だし、試すなら早えほうがいいからよ」
 私は、茫然(ぼうぜん)としてしまった。
 テーブルに置かれたのは、体外受精・胚移植の資料だった。
 このところの響一はそういうつもりで、自然妊娠をめざして励んできたけれど、なかなかその兆候がないのでクリニックでまず自分の検査をして、私にも加齢にともなう卵管や子宮の問題が生じていないかを調べてみてほしいと言ったのだ。
「話したよな、もうひとり欲しくねえかって、話したべさ」
「だけど私、うんって言ったっけ?」
「お()もやっぱり、橙也が手ぇ離れちまってさみしいのもあるべさ」
「空いた時間の埋めあわせみたいに子供を産ませるの? 新しいことを何か始めようとして、私の気持ちが外に向いてるから、ふらふらして落ち着かないからって。それってけっこうひどいからよく考えてみて。あなたは私が妊娠して出産すれば、これまでとおなじになると思ってるんだよ。ずっとこの家にいて、これまでの二十年とおなじ二十年がリピートされるから、そうなれば気が楽だと思ってるのよ」
「なして怒るのよ、おれはまた昔みてえな夫婦に戻れねえかって、次の子ができれば二人とも張りあいが出んだろって、そっだら話でねえか」
「生殖医療の資料まで持ちだして、もういままでとは次元の違う話でしょう」
「自然に(はら)まねえなら、こっだら医療に頼るのもありでねえかってだけだべ」
「いやいや、いやいやいやいや、あなたは私の気持ちを無視して、思いつきでもういちどおなじ二十年を送らせようとしている。あなたの目の届きやすくなるところで、納得のいくかたちに押しこめようとしている」
「家庭をそっだら、()ぐねえ場所みてえに言うのはなしてよ」
「私がやりたいことを探してるのが、これまでと違う自分になろうとしているのが、あなたは本当は面白くないんだよ。私の役割をそっちで一から十まで決めつけて。理想のセックスができる妻で、自分の子のかいがいしい母親で、そういう自分の理想をなにより優先しようとしてるのよ」
「んなこたねえって、おれが夫婦第一主義なのは知ってるべさ」
「その夫婦っていうのは、あなたが何もかもをリードする夫婦ね。あなたの理想どおりに事が進んで、キスをするならあなたがしたいときにするって夫婦ね」
 このときはっきりとわかった。響一は子育てのことも、私自身のことも尊重するふりをしてまったくしていない。最低限、保たれていると信じていた相互理解は、私の幻想にすぎなかった。認めたくなかったけど認めざるをえない。響一は長いあいだ連れ添った女にすら〝役割〟を押しつける男だった。
 間違ってもそんなふうに、子作りを囲いこみの材料にしてほしくなかった。
 無為に生きてるぐらいなら子を宿せ、と言われているようで頭がくらくらした。
 私のささやかな幻想を、幻想のままに保たせておいてほしかった。
 その夜には、婚家を離れたいというところまで思いつめていた。
 このままこの場所で死にたくない。私はこの命をつなぎたい。
 だからこそ〝亡命〟が必要だったのだけど――

 

 こうして不貞が発覚して、響一の言いぶんはもはやお話にならなかった。
「他にも相手いたんだから、ホステスなんだから。おれの子だかわがらねえ」
 だそうです。電話で話したきり、響一とはもう顔を合わせたくなかった。椿さんが望んだ三者協議は申し訳ないけど辞退させてもらって、もうとどまっている理由もないので荷物をまとめて婚家をあとにした。
 野島さんと話すと、「あーやっちゃったわね、旦那さん」と言われた。「おかげでわかりやすくなったじゃない。これでみんながあなたの味方をするわよ。お義父さんのことがあるんでしょうけど、義妹(いもうと)さんたちもいるならあなたが義理立てすることはない。すぐにこっちにいらっしゃい」
 そうしよう、と思いながらもすぐには()てず、私は県内のビジネスホテルに泊まり、夜はそこで小説を書いて――ヴンダーカマー文学賞の締切も近かったからね、プロの作家の缶詰みたいで気分は上がった――昼間は義父のリハビリの介助に通った。愛人が乗りこんできたことは隠しきれず、亜里沙さんは味方についてくれたが、盛二や橙也はこの期におよんで〝話しあい〟を勧めてくる。私はきっぱりと固辞する。
 響一は愛人からも逃げまわっているようで、ちょっと心配になって椿さんに電話してみると、電話口で彼女は泣きだしてしまった。聞けば母親とは死別していて、父や親族には不倫相手の子を身籠ったことで総スカンを食らい、実家を追いだされ、身重ながら知り合いの家を転々としているという。帰宅が不規則な友達のところに居候しているというので足を運んでみれば、シンクには汚れた皿がいっぱい、煙草(たばこ)の煙が染みこんだ古い絨毯(じゆうたん)のような臭いがしていて、脱ぎっぱなしの服や冷凍食品の袋やペットボトルの空き容器が散らかっているようなありさまで、私のなかの〝主婦〟が我慢できなくなり、いっきに掃除や皿洗いを片付けさせてもらった。
「悪いことばかり考えちゃって、怖い夢ばっかり見るからあまり眠れなくて」
 最初に会ったときはやっぱり無理をしていたのね。私の目の前にいるのは、家族にそっぽを向かれ、お腹の子の父親にも世話を焼いてもらえず、恐怖と混乱に震えている一人の娘だった。雛人形は雛人形でも、男雛(おびな)と対の女雛(めびな)になれない、雛壇からいまにも落ちこぼれそうな三人官女の端っこだった。
 この()は、怖がっている。
 お産そのものも、シングルマザーになるかもしれない未来のことも。
 それがはっきりとわかって、私の倒錯した罪悪感もヒートアップする。どうしてこんなことになったんだろう、と彼女が漠然とおののくさまを見ていると、自分の身代わりに身籠らせてしまったような思いが強くなって、私にまでしばしば恐怖が感染した。
 臨月になると動くのもしんどそうで、私は見かねて妊婦健診にまで付き添った。お若いお祖母(ばあ)ちゃまですねと看護師に言われてもオホホとごまかして、夫と愛人の子の成長を超音波画像で見ているときには、われながらシュールな事態になったと思った。
 すこしずつ橙也を産んだときのことを思い出して、お通じや()るべき栄養の相談にも乗って、陣痛のことや分娩(ぶんべん)のことも聞かれるままに教えた。母と娘ほどの年齢差はないのに行くさきざきで妊娠した娘をサポートする母親のように見られた。
「ずっと着信拒否してるんです、一度も会いにきてくれないし」
「ごめんね、ほんとうに……」
 なんなんだ、響一、三十六計逃げるにしかずか。たったいま彼女の隣にいるべき響一がいないから、私はいやおうなしに主婦のマルチタスクを発動させて、身のまわりの世話を焼き、妊婦が喜ぶ料理を作って、マタニティ・ブルーがこじれた椿さんに一人でいたくないと乞われれば、私のホテルに彼女を連泊させたりもした。
 毒にも薬にもならないテレビを見ている椿さんのかたわらで、私は『キスカム(仮)』を書きつづけた。何を書いているのかと()かれて小説だと答えると、物珍しそうに関心を示してきたのでさわりだけ内容を教えると、
「すごい、面白そう」と言ったので私のなかで椿さんの好感度が急上昇した。
「そうかな、面白そうかな」
「読んでないからわかんないけど。あたし、小説の字って読めないし」
「あ、そう。息子にはおばさんの退屈な手記とか言われたけど」
「だけど多恵子さんってロマンチックなんですね。新婚旅行で見たキスカムのことからお話を作るなんて。キスのしかたがわからなくなって、旅をして……とかそういうの普通じゃ思いつかないし。田舎で主婦やってるのはもったいないですね」
 なんとなくそれは地方差別でも主婦差別でもあるぞ、と思ったけど口には出さない。これまで小説は一度も読んだことがないと衝撃の発言をした椿さんが、読めないけど内容は気になるとあおるので、調子に乗った私はドキドキしながら「……なんだったら気晴らしに朗読しようか」と水を向けると、
「あ、それはいいです」
 あっさり話を打ちきられてしまった。

 

 すべてはなしくずしに転がっていく。私と一緒にいるときに椿さんは破水して、なりゆきで私も救急車に同乗して、そのまま出産に立ち会うことになった。廊下で待とうとしたけど、私が帰ると早とちりした椿さんが「行かないで」と手を離さないので、そのまま続柄の欄に〝祖母〟と書きこんで、スモックをまとって消毒ジェルを手に塗りたくり、獣のような声で叫ぶ彼女とともに分娩室になだれこんだ。
 顔をむくませ、世にも恐ろしい金切り声をあげる椿さんは、私の前腕をつかんで言う。
「来た」
 陣痛の強い波がやってきて、手すりではなく私の両腕にしがみつく。おでこや首すじに()れた髪がへばりつき、眼窩(がんか)は盛り上がっていまにも眼球がこぼれ落ちそうだった。「響一さん響一さん」と(あえ)ぎながら言うので、ついに私が響一に見える譫妄(せんもう)状態におちいったかと思ったがそうではなくて、いざとなれば響一が救世主のように現われてくれると思いこもうとしているこの娘はやはりお腹の子の母親なのだった。「響一さんはどこ、噓でしょ、本当に来ないの!」
 分娩台に乗るところまではよかったが、三時間がすぎても太腿(ふともも)のあいだから飛び出したのはおしっこだけだった。これでも陣痛がまだ弱くて、子宮口が五センチも開いていないというので前室のようなところに戻されて、室内を歩かされたり、バランスボールに乗って産道を(ひろ)げる運動をさせられたりして、痛みから気がまぎれるものが欲しいというので私はマックを取りだしたが、「朗読はいいです!」そんなの聞いてられないと怒られた。ようやく分娩台に戻してもらえて、腿の筋肉を浮きたたせ、声を出して息み、息み、(ほとばし)るおしっこではない液体とともに出てきたそれを助産師が受け止めた。おちんちんはついていない。女の子だ。へその緒を切ると泣きだしたけど、不安になるほど泣き声は弱かった。椿さんは分娩台で体をひねって、
「赤ちゃんは、あたしの赤ちゃん」と叫んだ。「あたしに抱かせて」
 胎便を飲んでしまったようで、赤ちゃんは保育器に入れられた。おへそに管を埋めこまれ、おびただしい医療器具でつながれ、蜘蛛(くも)の巣につかまってしまったちいさな虫のように見えた。胎便はちいさな肺につまったりすれば酸素供給や人工呼吸、悪ければ人工心肺が必要になるほど危険なものなはずだ。透明のプラスティック越しのその子は、私の目には迷っているように見えた。
 しわくちゃの目がすぼまり、(まばた)いた。この子は迷っている。
 (まぶ)しい新天地にとどまるか、それとも元いた暗くて静かな場所に戻ろうか。
 その境目にいる。どっちつかずで、両方の浅いところを出たり入ったりしている。
 脳梗塞で倒れた瞬間の、お義父(とう)さんにも似ていた。
 生と、死。
 お願いだからこっちを選んで、こっちにとどまって、と祈ったとたんに大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。橙也を産んだときにもわが子がいつ呼吸を止めてしまうか怖くて怖くて眠れずに泣きじゃくっていた自分の姿を思い出した。
 お願いだから命をつないで、せっかく出てきたのに、まだ戻ることはないじゃない。その保育器からの眺めをこの世界の見納めにするなんてありえない。あなたはまだ素晴らしいものを見ていない、美味(おい)しいものを食べていないし、血湧き肉躍る物語にもふれていない。胸が痛いような恋もしていないし、というかだれからも、恋人どころか親からも、愛情であふれんばかりのキスをしてもらえてない――
 新生児がどちらを選ぶのか、その場ですぐに答えは出なかった。私は保育器の前を離れて、回復室というところに入れられて点滴を受けている椿さんの枕元に(すわ)った。シュールな事態におちいったまま、この夜にたどりついたけれど、私たちはたしかにそのときある種の連帯感で結ばれていた。
 他の医師や看護師がいなくなってから、あの子は絶対に大丈夫、と私が言うと椿さんは泣きだした。響一もかならず病院に来させるから、あの子をちゃんと抱っこさせるからと約束すると、椿さんはありがとう、と言ってすこし上体を起こし、私の首すじに両腕をまわして体を寄せてきた。
 彼女の干からびた唇が、私の唇のすぐ真横にふれた。私は思わずちいさな声を漏らした。さっきまで流していた涙の尻尾を吐息に変えて吐きだしていた。
 出合い頭のような接触に戸惑ったおたがいの唇が、連帯の(あかし)のように、今度はしっかりと重なった。恋人同士のキスとは違ったけど、それでも私にとってはたしかに大事なキスだった。たった一度だけ、もう何年も前に、お酒と小説談義の宵に野島さんと交わしたそれのことを思い出した。あるいはあのアメリカのスタジアムから、私自身がずっと待ち焦がれてきたキスなのかもしれなかった。
「ありがとう、多恵子さん、ありがとう」椿さんは何度も礼を言った。
「私こそ、得難い体験をさせてもらった」
「多恵子さん、小説書いてね。それであたしとあの子にいつか朗読してね」
「ええ、きっと。ところで名前は決めてるの。椿さんがつけなくちゃ」
「そうだな……」

 

 私もだ。仮の題名しかない小説に名前をつけなきゃいけない。
 ホテルに戻ってきて、湧きかえる言葉とイメージを書きつけていく。
 かすかにつかんだ風景を、文章を、手離したくなかった。
 私は通過される。たったいま生かされている理由は、書くことができるからだという気すらする。言葉が、物語が、私を通過していく。

 

 現実でやるべきことはそれほど残っていなかった。私は響一と会って、混乱している夫と膝をつきあわせて何時間も話して、ようやく協議離婚に話をもっていくことができた。あとは弁護士を交えた話しあいになりそうだ。盛二や亜里沙さんにも丁寧に説明をして「お義父さんのことは心配いらないから」とまで亜里沙さんは言ってくれた。椿さんが響一と一緒になれるかどうかは、あとはもう二人の問題だった。
 母子ともに無事に退院することができた椿さんに、赤ちゃん本舗でおむつとお尻ふきとロンパース、歯固めのおもちゃ、布製の絵本、おむつ替え用の霧吹き、とちょっと気が早いものまでまとめて買いこんで郵送した。
 退院の朝になってようやく響一は現われたらしい。「こんなにちっちゃかったか、手とか足とか噓だろ」と娘の指をつかんで泣いたらしい。

 

 私にも抱っこしにきてほしい、と椿さんはメールしてきたけど、夫とのこともあるのでしばらくは遠慮することにした。書きだした小説をようやく脱稿まで()ぎつけて、(仮)のとれた題名を決めて、高ぶる心地をおさえられずに夜の街中をあてもなく歩いた。
 東京に亡命しようとして空港まで歩いた経路も、赤んぼうの橙也が泣きやまないので抱っこしたままめぐった路地も歩いた。夜明けはまだずいぶんと遠くて、朝がどこかで迷子になっているみたいで、だけど月明かりのおかげで闇は薄れ、夜気がしっくりと肌身になじんだ。初めての小説を書きあげたあとの世界は柔らかく私を包みこんでいた。
 両足はどこまでも歩きたがり、一歩一歩を重ねたがり、地面を弾むようにしてどこまでも歩いていけそうだった。夜は奇妙なほどに静かで、いくつもの街の灯を浮きあがらせている。リュックにはマック・ブックプロと数冊の本も入っている。いっそこの足でどこかに行ってしまおうか。奄美大島でもいい、東京でもいい、海の向こうの異国でもいい。あんなに(はる)彼方(かなた)蜃気楼(しんきろう)のようにかすんでいた異郷が、いまはちょっと足を延ばせばたどり着ける遠景の鉄塔ぐらいのものに感じられた。たとえ歩いても歩いても目標が近づいてこないような気がしても、できるだけ身軽になって、頭を空っぽにして、通過していくものにゆだねればいい。一歩を進めるごとに風景は変わり、ある瞬間にいきなり目標は目の前にあるだろう。今なら心からそう信じることができる。私はいま自由で、亡命もしたいだけできる。だけど現実にそれをする必要があるのだろうか? 驚くことに私はこの地を一歩も離れずに、タエコの旅を最後の風景にたどりつかせた。思えばそれが小説の奇蹟(きせき)なんだ。物語のなかではなんべんでも、どこまででもそれを実現させられる。あんなに動かないと思えていた壁も動いて、遠い風景も向こうから近づいてきて、私はつかのまの夢見心地と高揚感に打ち震えることができる。
 だから街路で立ち止まり、前後左右を見渡して、それから(きびす)を返して来た道を戻りはじめた。
 もう少しだけとどまろうと思った。野島さんとはまた会いたいけど、橙也にも帰る場所は要るし、見ていたい顔もある。それに私が行かなくても、タエコが行くから。亡命の翼をはためかせてどこまでも旅をする。私はその背中を見送る親であればよかった。
 他の応募者たちは、締切に間に合っただろうか。賞の主催者や選考委員に、顔も知らない読者たちに、私はそっと『キスカム』の完成を告げる。待っていて、もうすぐタエコが行くから。

 

 


 たったいま目の前にあるものが、正しいものか、間違っているのか、彼女たちには判断がつきません。暗くて温かい場所から()いだして以来、すべては不足によって生みだされてきました。
 家族だって宗教だって都市だって、消しゴムだって、梯子(はしご)、階段、旗、石鹼(せつけん)、酒の蒸留法、平等、地図、クラシック音楽、コペルニクスの地動説、魔法瓶、アスピリン、真空管、経口避妊ピル、そんなものはどれもなにかが足りない、というところから出てきたものでした。キスもそうです。愛の表現はずっと充分ではなかったし、あるときにはぜんぜん足りなかった。だから生まれたのです。それはたちまち人類に行き渡り、行き渡っていることを示すシステムができました。


 ターミナルからスタジアムまでどこもかしこも混んでいて、税関なんて長蛇の列だったし、タクシーは渋滞に巻きこまれて、乗客よりもイライラしている運転手にはチップを弾まなきゃいけませんでした。
 ロビーから会場へとつづく通路を歩き、タエコたちの視界がひろがります。海のように波打つ満場の客席でたくさんの親や子が、夫や妻たちが、それから恋人たちが歓声を上げています。
 戻ってきた、とタエコは思います。あちこち旅をして、まわりまわってここに戻ってきた。遠まわりをしてきたとは思いません。彼のもとを離れて以来、綿花畑からスラム街、あの世ときびすを接した浜辺にいたるまで転々としてきたからこそ、ここにともに来られたのです。たったいま隣にいるその人は自分たちの座席を見つけて、会場の熱気による汗をぬぐいます。手鏡で髪を直して、それから千に一つの歓喜を、天に昇る心地が訪れるのを待ちます。
「わたしたち、選ばれるかな」
「いきなり選ばれたらすごいけどね」
「今って名前を聞いてくるアナウンスとかもあるらしい」
「そうなの、へえ、それはちょっと緊張するね」
「彼女はタエコ、ってわたしが言うからさ」
「あっ、タイムアウトだ」
「見て、あのひと、カメラを呼ぼうとしてる」
「え、どこ?」
「あっち。熊みたいな男と一緒にいる」
「ほんとだ。みんな期待してるのね」
「させるか」
「座ってなよ、天の配剤にゆだねようよ」
「だってあなたの念願なんじゃないの、前の彼と来たときからの」
「そうだけど、来られただけでも満足ってところもあるし」
「大丈夫、わたしは自信があるから」
「選ばれる自信が?」
「ううん、この場でいちばんのキスをする自信が」
「あ、見て」
「他にもライバルがいるの」
「違う違う、ほら、モニター!」
 タエコは戻ってきました、始まりの場所に。恋人とともにぐるぐるとまわって、幾夜にもつらなる言葉を重ねて、たどりついたそこではラブソングが流れだします。頭上のモニターが唇の形に切りとられ、ふたりは抱擁しあい、見つめあって、髪を()で、抱きあいながら舞いあがり、たがいを軸にして回転し、宙を飛んで、あっと息を()む観衆の瞳のなかでスローモーションの火花を散らせます。
 そのときふたりは、地球を外から見た宇宙飛行士のような気分になるでしょう。時も人もうつろい、結びついてはまた離れ、画面から見える風景も違っているでしょう。
 さあ、キスカム。恋人たちのもとへ。タエコたちはその瞬間を待ちわびます。それまではふたりで双子の胎児のように、片時も離れずに。

 
 
 
【三人目につづく】
 

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著者
真藤順丈プロフィール

真藤順丈(しんどう・じゅんじょう)
1977年東京都生まれ。2008年『地図男』でダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で電撃小説大賞銀賞、『RANK』でポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。2018年刊行の『宝島』で山田風太郎賞と直木賞を受賞。他の著書に『バイブルDX』『畦と銃』『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』などがある。